2006-01-01から1ヶ月間の記事一覧

自由にとどまる

それにしても、こう見てみると、現代の作家たちは、なかなかに難しいところにおかれていることにあらためて気づかされる。正直、よくも、まあ、この厳しい戦いを継続しているよな、と心から驚かされる。でも、少しばかり心が暖められる。 グリーンバーグが述…

物語の終わる場所で

ここで、『野生の思考』にふたたび戻ってみることにしたい。 このなかで、レヴィ・ストロースは、先ほどのブリコラージュという方法と科学的な方法を区別して考えている。科学の方法においては、「構造を用いて出来事を作る(世界を変える)」のに対して、ブ…

モダニズムという体系

ここで、少しだけ過去を振りかえってみたい。今回の展覧会の作家たち、そして、僕たちが今おかれている状況を考えるのに有用だと思われるからだ。取り上げたいと思うのは、アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグの評論「モダニズムの絵画」*1だ。 …

高度資本主義社会のブリコラージュ

ここで、思い出したのがクロード・レヴィ・ストロースの『野生の思考』*1の有名な「ブリコラージュ」という概念だった。今回の展覧会において、作家たちは、その概念を知っているか否かに関わらず、ブリコラージュの手法を用いていたのではないか。ともかく…

断片化する世界とパスティッシュの手法

このところ、ポストモダンなどと口走ると、哀しいことに嫌な顔をされることが多いので、どうしようかと迷っていたのだけれども、ここで『反美学』*1という論文集を取り上げることにする。1983年にアメリカで出版されたものだ。日本でも、それなりに話題…

既製品としての「かわいさ」

1990年代の後半から今回の展覧会の時期に至るまで、「かわいさ」ないし「かわいい」意匠は、ひとつの流れを形成していたことは確かで、先に長々と「かわいい」と書いていたあいだにも、例えば、奈良美智だとか村上隆のことを思い出す人も多かったのでは…

レディメイドの世界

ここで、「かわいさ」からいったん離れて、今回の展覧会のもうひとつ別の枠組みから見てみたい。既製品という枠組みだ。 マルセル・デュシャンがニューヨークの独立展覧会に「泉」という作品をR・ムットという名前で送りつけたのが1917年の話で、それか…