高度資本主義社会のブリコラージュ

 ここで、思い出したのがクロード・レヴィ・ストロースの『野生の思考』*1の有名な「ブリコラージュ」という概念だった。今回の展覧会において、作家たちは、その概念を知っているか否かに関わらず、ブリコラージュの手法を用いていたのではないか。ともかくも、まず、この概念を確認しておく必要があるだろう。レヴィ・ストロースは、こんなことを言っている。

ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉突、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブリコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事(ブリコラージュ)である。

 ブリコラージュとは、こういった概念である。「もちあわせ」の材料を組み合わせて、ものごとを考えたり、表現したりしていく方法だ。何かしらの計画にあわせて、まず、材料や道具を作って、その次に、必要なものを作っていくというわけではなくて、目の前にある限られた資材を組み合わせて、ものを作っていく。ここにあるのは、「「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則」であり、その「使う資材の世界は閉じている」。
 この概念を踏まえると、今回の展覧会の作家たちがなにを行っていたかということが明確になるのではないだろうか。既製品、つまり、目の前にある限られた資材を用いて、自らを表現していく。そういったことが行われていたように思われる。
 そういったことを強く感じさせられたのが、トニーコ・レモス・アウアッドというブラジルの作家だった。彼の作品は、カーペットというか絨毯の毛玉を集めて、動物の姿などを形作ってみるといったものや、金の鎖を天井から床に垂らして、床のうえに抽象的な図形を作ってみるといったものだった。
 展覧会のカタログによれば、「現代美術における表現方法は、今や出しつくされた感がある中で、日常の生活の中から表現に高めうるモノを見出し、作品として結実させる製作態度は特筆に価する」ということらしい。とすれば、資材が閉ざされている世界のなかで、この作家は、目の前にある限定されたモノを利用して、新しい表現を作り出すブリコルールと考えることも許されるだろう。
 もちろん、その背景には、これまでの彫刻の流れのなかで、いかに新しい表現を見つけ出すかという問いもあったのだろう。その経緯のなかで、絨毯や金の鎖といった新しい資材が発見されたということになるのかもしれない。影響の不安ではないけれども、すでに行われたことではないことを行いたいという欲望によって、既製品が見出されたとも言えるのだろう。
 しかし、どうだろうか。既製品という資材もまた、限られたものではないだろうか。少なくても、この作家は、絨毯や金の鎖の生産者ではないし、また、目の前にあって使うことのできる既製品の数は、膨大な量に及ぶとはいえ、限られているということもできる。仮に、既製品を最初から作り出すことができる作家がいたとしても、しかし、彼らが新しい製品を発明するわけではない。とすれば、やはり、そうは言っても、彼らが使うことができる資材というものは限られている。そして、そのとき、作家の方法は「限られた資材」のなかで何とかしていくというブリコラージュの手法に限りなく近接していくことになる。
 このことは、既成のイメージの盗用についても当てはまる。例えば、「かわいい」といったイメージもまた、閉ざされた世界のなかにある。作家たちは、新しい「かわいさ」を作り出しているわけではなくて、すでにある「かわいさ」を盗用することによって、自らを表現していくわけだから、そのイメージは有限である。それはたとえば、アニメーションや少女漫画の世界から盗用されるものであったり、市場経済のなかで流通する商品から転用されるものであったりする。ありあわせの「かわいさ」ないしそのイメージをやりくりして、作家たちは表現を行っているわけだ。とすれば、既成のイメージの盗用もまた、ブリコラージュの手法によっていたのだと考えることも許されるだろう。
 僕たちのまえには、確かに、ジェームソンの描いたような社会が拡がっていることは否定できない。だから、作家たちの方法もパスティッシュに近いものを感じさせるところもある。しかし、作家たちは「無表情なアイロニーの現代的実践」を行っているわけではなく、ブリコラージュという方法論を用いて、何らかの表現を志しているように思われる。
 事実、トニーコ・レモス・アウアッドの絨毯や金の鎖といった作品をまえにして、僕たちは、「これまでの規範的な彫刻や彫刻の素材と差異化を図っているんですね。でも、それだけじゃないですか。」などといったシニカルな感想は抱くことはなかった。そうでなくて、僕たちは、この作品をまえにして、それを彫刻であると認識する以前に、絨毯の柔らかな毛で作り出された動物たちのかたちの繊細さや不安定さ、そうでなければ、星座を彷彿とさせる形状の謎めいた姿を触感的に体験したのだった。そこに見出されるのは、アイロニカルな作家の主張ではなくて、「こんなもので、こんなのを作ってしまっちゃったけれども、面白くない?」といったユーモラスな問いかけであったように思われる。そうでなければ、「横浜トリエンナーレ、面白かったですね」といった微笑をたたえた感想が至るところに見られる現象を説明できない。
 すでに作られているものを何らかの形で組み合わせて、表現の形にまで高めていくこと。今回の展覧会において、作家たちが行っていたのは、そういったことだったように思う。とすれば、既製品の多用は、作家たちの目の前にある限定された資材のやりくりの痕跡であり、今回の展覧会において、ブリコラージュという手法が用いられていたことのひとつの指標であったと考えることも許されるだろう。
 ここで、最後に考えてみたいのが、なぜ、今、ブリコラージュなのかということである。『野生の思考』において、レヴィ・ストロースは美術家は「科学者と器用人(ブリコルール)の両面をもっている」と述べているけれども、しかし、今回の展覧会では、今まで見てきたとおり、ブリコラージュの手法が前面に浮上していたように思われる。とすれば、なぜ、今(今さら?)、作家たちは、ブリコラージュの手法を選んだと言うのだろうか。これが最後の問いになる。

(その5に続く)

*1:以下の引用は下記の本からです。

野生の思考

野生の思考