断片化する世界とパスティッシュの手法

 このところ、ポストモダンなどと口走ると、哀しいことに嫌な顔をされることが多いので、どうしようかと迷っていたのだけれども、ここで『反美学』*1という論文集を取り上げることにする。1983年にアメリカで出版されたものだ。日本でも、それなりに話題になっていたので、記憶している人もいるかもしれない。このなかに、フレドリック・ジェームソンという人が書いた「ポストモダニズムと消費社会」という論文がある。これを見てみたい。
 このなかで、ジェームソンは、結論として、ポストモダニズムの出現が「後期資本主義、消費型資本主義あるいは多国籍資本主義という新しい契機の出現と密接に結びついている」ということを言おうとしているのだけれども、まず、驚かされるのは、ジェームソンが描いている社会像というものが驚くほどに現在を思わせるところが多いということである。つまり、「偉大なモダニズムのスタイルが登場してから何十年かの間に、社会それ自体が同じような仕方で断片化しはじめ、各集団がそれぞれ独自の奇妙な固有言語を話すようになり、各職業に固有のコードやイデオレクトが発達し、そしてついには、各個人が他のあらゆる人から分離された、言語的な孤島と化してきた」という状況だ。
 確かに、二十年以上もまえに彼が描いているとおり、大きな物語の終焉と呼ばれたような現象があって、その後に、無数の小さな物語が同時並行して衝突しあうような世界がやってきた。価値観がやたらと乱立して、個々人が有している情報の階層がやたらと細かく無数に、しかも、入り混じらないで積み重なっているのが、現状である。もはや、僕たちは、自分が普遍的な言語で語っているという前提で生活していくことができなくなっていて、自分のあたまにある事柄は、固有言語というか方言のようなもので、話しかける相手によって、異なったモードで話を進めるという態度が要求されるようになっている。つまり、ジェームソンの言葉によれば、「固有言語や独特のスタイルをからかうことができるような言語的な規範が存在」しなくなっているわけだ。
 そのとき、パスティッシュという表現の形式が生まれるとジェイムソンは述べる。パスティッシュとは、彼によれば、パロディとは区別されるもので、ネガティブに捉えられるものである。ジェームソンは、こんなことを言っている。

パスティシュとは、確かにパロディと同様に、特異なあるいはユニークなスタイルを模倣するものであり、文体という仮面をかぶって、死せる言語で語ることである。しかし、パスティッシュとはそうした物真似を中立的な立場で実践することなのであり、パロディのもっていたような秘められた動機、つまり諧謔的な刺激や、嘲笑や、模倣されるものがそれに比較して滑稽に見えるようなノーマルな何かが存在するという気分を、もっていないのである。パスティッシュとは無表情なパロディ、つまりユーモアのセンスを失ったパロディなのである。

 この人は悪文を書くことで有名で、訳文でさえ、句点が妙なところにおかれていたりして読みにくい文章になっている。でも、言いたいことは分かる。つまり、モダニズムの時代には、多くの人たちが共有している規範を想定することができて、それを笑い飛ばすことによって、或いは、それを貶めることによって、個人の表現が成り立つところも多かった。でも、そういった時代は終わってしまった。そのとき、表現のなかからは熱が失われて、僕たちに残されているのは、ただ、「無表情なアイロニーの現代的な実践」だけになってしまう。社会を束ねるような枠組みが崩れてしまった結果、表現のなかには、価値判断を中立化した「ほかの表現とは違う」という差異だけが残されることになる。その差異の表現がパスティッシュということになる。ジェームソンはこんな風に考える。
 では、今回の展覧会はどうだったのか。既製品をもってきて、それを作品のなかに取り込んでしまう。しかも、そのなかで、作家たちは、すでに作られているものを貶めるべき規範として用いているわけでもなければ、モダニズムのオリジナル神話を相対化しようという野望をもっているわけでもない。だから、うがった見方をすれば、ほかの作品と異なることの指標として、作家たちは既製品を用いていると考える余地はあるだろう。他の作家が使わないであろうものを使うために、既製品が使われる。そういった意味で、既製品の多用はパスティッシュを思わせるところもある。
 また、かつてのアプロプリエイションの作品群は、悪意をもって消費社会のイメージを盗用することで、「模倣されるものがそれに比較して滑稽に見えるようなノーマルな何かが存在する」ということを示すものなのだから、ジェームソンの図式にしたがえば、パロディに近いものであったとも考えられる。これに対して、今回の展覧会に見られた盗用のなかには、アプロプリエイションの手法を用いながらも、しかし、「諧謔的な刺激」や「嘲笑」といったものは感じとれなかった。だから、既製品の盗用の屈託のなさに「無表情なパロディ」が垣間見えることがあるかもしれない。こう考えると、ジェームソンの議論はそれなりに魅力的なものに映るのは否定できない。
 しかし、実際に展覧会に足を運んでみると、正直、ジェームソンの議論をここに当てはめるわけにはいかないようにも思われるのも事実だ。なぜならば、作品に「無表情なアイロニーの現代的な実践」といったような冷笑的な態度がないからだ。むしろ、そのなかに見出せるのは、ピュ〜ぴるの人形に見られたようなユーモアであり、また、ヘディ・ハリアントの牛に見られたように、世界に対する何らかの働きかけであったように思われる。そこには、冷たさというよりも、微熱のこもった切実さのようなものさえ感じられたのではないだろうか。だから、たとえ、現実の世界がジェームソンの予告したとおりに進行していたとしても、その世界に対する作家たちの応答は「無表情なアイロニーの現代的な実践」と呼べるものでは決してないように思う。では、それをなんと呼べばよいのか。

*1:以下の引用は下記の本からです。

反美学―ポストモダンの諸相

反美学―ポストモダンの諸相