既製品としての「かわいさ」

 1990年代の後半から今回の展覧会の時期に至るまで、「かわいさ」ないし「かわいい」意匠は、ひとつの流れを形成していたことは確かで、先に長々と「かわいい」と書いていたあいだにも、例えば、奈良美智だとか村上隆のことを思い出す人も多かったのではないだろうか。
 でも、そうした流れは、日本製のアニメーションだとかオタクだとか、そういったナショナルでドメスティックなものと結びつけられる傾向があって、個人的には、そう考えてしまうと、なんだか詰まらないというか間違った方向に話が進んでしまう印象があった。それじゃあ、「一番としての日本」といった狂乱景気の時代の誤った自意識の反復ではないか、と。
 かといって、「かわいさ」をスーパーフラット経由で、インタネットだとか「動物」だとか、そういったものと結びつけてしまうのも、お手並みは鮮やかではあるのだけれど、違和感があった。
 何と言うか、日常的に生活していると、あたまが悪くてものごとを安易に考える傾向があるのは確かだとしても、僕たちは、「動物」と表現してしまえるほどまで「気持ちいい」だとか「痛い」だとか「腹が減った」だとか、そういった感覚に身を委ねる強度を備えているわけではないような気がしたのだった。
 むしろ、どろどろとした情念的なものに囚われている人たち、つまり、「動物」の現在性を明るくそのまま肯定するのではなくて、「人間」の記憶に拘泥している人たちが多く見うけられるところもあった。言ってしまえば、「動物」の現在性を肯定するために「人間」の記憶ないし歴史(しかも、ものすごく安っぽい物語の体裁で)を仮構せずにはいられない脆弱な人たちが目につくのも事実で、だからこそ、戦争の記憶を書き換えようと下らない人たちが大声をあげ、少なからぬ人たちがそれに従ってしまうという、この頃の不快な構図があるのではないだろうか。
 そういったところもあり、個人的には、今まで「かわいさ」についてきちんと考えることを怠ってきた。でも、今回の展覧会に何度か足を運んでみたところ、実際のところ、「かわいさ」は、やたらと目立っていた。無視してしまうと、嘘をつくことになるほどまでに「かわいさ」が氾濫していたのだった。そこで、問題となるのは、この「かわいさ」をどう考えるべきか、ということになる。
 最初に長々と書いたように、それはアプロプリエイションを思わせる手法をとっているのだけれども、そのベクトルは、まったく異なった方向に向いていた。盗み取られた「かわいさ」は、高度資本主義社会から押し付けられた、唾棄すべきステレオタイプないしイメージではなくて、むしろ、自らが欲して身にまとう衣装であるかのようだった。
 そういった違いがあるにせよ、ここで大切だと思われるのは、これらの「かわいさ」というものが盗み取られているということである。つまり、「かわいさ」は、僕たちが生活している日常のなかでよく見うけられるものであり、新たに作り出されたイメージではない。それらは、僕たちの目には、すでに何処かで作られたものであるかのように映るのだった。
 事実、ヘディ・ハリヤントの牛は、下北沢のアジア雑貨屋で売られている人形のような姿をしていたし、奈良美智+grafの子犬たちは、そのまま市場で流通させることができるのではないかというほどの品質を備えていた商品であるかのようにも見える。さらに、失礼だとは思うけれども、マーリア・ヴィルッカラの動物たちは、彫刻というよりも、お菓子のおまけの食玩を彷彿とさせる。村上泰輔のぬいぐるみたちに至っては、作品であると同時に、商品でもある。それらは、見慣れた既製品として流通しうるイメージを身にまとっているのである。
 とすれば、この「かわいさ」は、既製品のヴァリエーションとして考えることも許されるだろう。既製品の「かわいい」イメージが盗み取られて、作品として提示されているのである。その意味で、この「かわいさ」は、iPodと同じようなものである。僕たちの生活のなかで馴染みがあるものが、現代美術の展覧会といういかめしい顔つきをした世界のなかに、ぽっとおかれている。だから、今回の展覧会は近づきやすい。「横浜トリエンナーレ、楽しかったよ」という感想が多くのところで書かれることになる。
 それはそれとして、とても良いことだと思う。少なくても、「現代美術って、退屈ですな」という不平不満が漏れ出すよりも、よほど良いことだろう。
 でも、同時に、気にかかるところが残る。この既製品というかそのイメージというか、そういったものは、なぜ、目立ってしまうのか。大げさに言うのであれば、現代美術のなかで、なぜ、ここまで既に作られたものが多用されるのか。作家たちは、なぜ、既製品を選ぶのか。

(その4に続く)