レディメイドの世界

 ここで、「かわいさ」からいったん離れて、今回の展覧会のもうひとつ別の枠組みから見てみたい。既製品という枠組みだ。
 マルセル・デュシャンがニューヨークの独立展覧会に「泉」という作品をR・ムットという名前で送りつけたのが1917年の話で、それからほぼ1世紀が経とうとしている。有名な話だけれども、この作品は、詰まるところ、既製品の陶器製の便器のことで、デュシャンはこれに署名(しかも、偽名の)をしたうえで展示させようとした。実際のところ、この作品が独立展覧会におかれることはなくて、仕切りの後ろに隠されていたというのだから、デュシャンが述べているとおり、「泉」は、ここでは「抹殺された」ということになるのだろう*1
 でも、この「抹殺」は失敗に終わったようだ。というのも、ポップアートやネオダダを経由して、今日、既成のイメージないし既製品をその構成物としてもつ作品が美術館や展覧会におかれることは、珍しいことではなくて、それはありふれた風景とさえ言えるからだ。そして、今回の展覧会においても、既製品は大きな役回りを演じていて、もはや、不可欠の前提とさえ言えるようにも映った。
 まず、個人的にもっとも印象に残っているのが、ミゲル・カルデロンの「考える人」という作品。これは二重の意味で既製品だった。
 最初に、僕たちが目にするのは、トイレット・ペーパーが積まれている情景で、なんだかよく分からない形の塊がおかれている。トイレット・ペーパーの商品名は「RODIN」。その緑地に白抜きの文字というデザインは、どことなく、アンディ・ウォーホールの「様々な箱」を思い出させるところもある。でも、その塊がなにかのヒントは「RODIN」という商品名と作品名は「考える人」にあって、それを読んだところで、僕たちは閃く。そう、このトイレット・ペーパーはロダンの彫刻「考える人」の形をしている!
 ということになれば、この作品が二重の意味で既製品であるということは明らかだろう。つまり、それを構成しているのは、我々がお尻を拭くのに使うトイレット・ペーパーであり(関係ないけれど、デュシャンの作品に「L.H.O.O.Q.(彼女のお尻は熱い)」って、ありましたね)、また、そのフォルムは既成の彫刻「考える人」なのだ。つまり、資材とそれが構成するフォルムがすでに作られたものなのである。
 この作品では、既製品は「あえて」用いられている。その意味で、トイレット・ペーパーの「考える人」は、ポップアートの直系の血筋を継いでいる。でも、既製品の侵入は「あえて」に留まるところではなくて、例えば、サイン・ウェーヴ・オーケストラという日本のグループの作品は、恐らく、作家たちの意図を超えて、既製品が大きな役割を果たしている。
 この作品は、展覧会のカタログによれば、「音」に向けられていて、可視的な構成要素は強調されていなかったようである。その「音」は、「ビーン」だとか「キーン」だとか、そういったものだったから、既製品という枠のなかで取り上げてしまうと、作家たちは不快に思われるかもしれず、申し訳ないのだけれども、でも、勝手な解釈をさせてもらうと、この作品の最初のインパクトは、少なくても、個人的には、聴覚というよりも視覚的なところにあった。
 この作品において、まず、僕たちは、天井から無数のなにかが吊るされているのを目にする。その姿は、まるで、無数の果実が木々になっているかのようでもある。その下に足を踏み入れると、それがiPodであることに気づく。そこで、「ああ、iPodだな」と僕たちは認識する。そして、耳慣れない音に気づき、僕たちのよく知っている商品が無数に吊るされて響きあうことによって、なにかが起こっていることに気づく。
 この作品には、こうした受容の流れがあったように思う。とすれば、作家たちの意図とは異なるかもしれないけれど、ここでは、まず、iPodという商品が前景に浮上していたように感じられた(そういえば、「あ、iPodがある」と声をあげて、パン食い競争さながらに、それを掴もうと、ぴょんぴょん跳ねている人の姿も見うけられたのも思い出す)。
 その意味で、この作品のポイントは、音というよりも、むしろ、iPodという既成品の外観が示されていたところにあったように思われる。つまり、僕たちが見慣れている商品の姿が最初に提示されていて、その商品が日常的には耳にしない、というか、オウテカの音をもっと無機質にしたような金属的な音を発している、というギャップのなかに、はっとさせられる瞬間があったように思う。
 こうした解釈が許されるのであれば、この作品では、iPodという既製品が果たしている役割はそれなりに大きい。それは「日常からの跳躍」がなされる起点になっている。
 このように、既製品という補助線を引いてみると、チェン・ゼンの「ピューリフィケーション・ルーム」というインスタレーションも、既製品が大きな役割を果たしていることに僕たちは気づくことになる。
 まず、さっきまで人がいたような部屋がある。そこには、ベットマットやらパイプ椅子やらテレビやらロッカーやらといった既製品が散乱していて、壁には、服がかけられている。しかし、その部屋は僕たちが足をおいている日常の世界とは確実に異なっている。なぜならば、あらゆる物が泥に覆われていて、人の気配が消滅している。そういった作品だった。
有名な作家の有名な作品らしい。でも、今回の展覧会におかれることによって、ひとつ強く思ったのは、この作品が既製品によって構成されているということがひとつのポイントとしてあったのではないかということだった。
 つまり、既製品という補助線を引いてみると、この作品は、例えば、今回の展覧会と離れることになるけれども、リチャード・ハミルトンという作家の「いったい何が今日の家庭をこんなに変え、魅力的にしているのだろう」という作品とネガとポジの関係にあるようにも思われた。リチャード・ハミルトンの作品では、既製品のイメージを貼り付けて、うすっぺらにした消費社会の情景を示していた。そこでは、質感が取り去られて、ぺらぺらの紙となった部屋の姿が作り出されている。
 これに対して、チェン・ゼンの作品では、泥の質感がある。既製品を覆おう泥が罅われ、僕たちが日常的に使っている既製品にへばりついている。壁にかけられた服もまた泥で重く硬くなっている。実物(というか、リメイクだけれど)を目にすると、それが視覚から強く読みとれる。そして、僕たちは、既製品とそれを覆う泥の情景の落差に考え込むことになる。このように見ると、この作品の起点となっているのも、既製品ということになるように思う。既製品で構成された世界が泥に覆われているからこそ、この作品のなかでは、なにかが起こっている。だから、この作品でも、既製品という構成要素は不可欠の前提となっている。
 このように概観してみると、意識的であるか否かを問わず、既製品は、もはや、今回の展覧会にとって不可欠な構成要素ないし前提となっていたことを強く感じる。それをそのまま使うのであれ、イメージとして取り込むのであれ、既製品なしには、作品は成り立たない状況に至っていたのではないか。
 さらに、ハードとソフトという区別を無視してしまえば、例えば、プロジェクターの存在がある。プロジェクターというハードウェアーがなければ、今回の展覧会の作品の多くが成立しなかった。逆に、仮に、プロジェクターの技術改革が進んで、3D映像を自由に映し出せるということになれば、今回の作家たちの作風というかスタイルというか作品というかは、まったく異なった色彩を帯びることにもなるはずだ。それほどまでに、作家たちは、既製品に大きな影響を受けていた。
 ここで、「かわいさ」に戻ることにする。すると、それもまた、既製品であったように思われてくる。

*1:引用は下記の本からです。

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)