かわいいものが好きな僕たち

 そうは言うものの、しかし、注意したいのは、アプロプリエイションが「同時代の社会に対する痛烈な批評性を孕む一方で、モダニズム芸術観に根深く規定しているオリジナリティ神話を解体しようとする」ものであった一方で、しかし、今回の展覧会の「かわいさ」のなかには、「痛烈な批評性」というものがまったく欠けていたということだ。
 繰り返しになるけれども、僕たちの社会のなかで、ぬいぐるみは、批評としての機能を営むほどまで危険なものではない。また、デュシャンの時代からすでに1世紀が経過している今になってみれば、既成品を展覧会においたところで、スキャンダルになるわけがない。むしろ、僕たちは、それらを見慣れた光景として受け止めるところも多分にある。
 だから、「かわいさ」の盗用には、社会のなかで当然とされている視点をずらし、そして、それとは異なる見解を提示するための悪意ないし批評精神のようなものは感じられない。アプロプリエイションに類似する手法がとられていたとしても、そこには、当たり前とされている情景を異化し、そして、旧来の価値観と新しいものの見方とのあいだに距離を作り出すといった目論見などは見出せない。当然ながら、支配的なイデオロギーヘゲモニーに抗して、新しいオルタナティブな世界観を提案しようなどという野心的な意図ない。少なくても、その作品の多くには、「これからは、この価値観で行きましょうや」といった、いささか鬱陶しくもあり、また、偉そうでもある働きかけのようなものは感じられない。
 むしろ、今回の展覧会の作品のなかに感じとれるのは、もっと個人的な感触だった。つまり、「わたし、これ、好きなの・・・」というような呟きのようなもの。
 例えば、ピュ〜ぴるという奇妙な名前をもった作家の作品がある。
 最初に、巨大なぬいぐるみと呼ぶことも許されるであろう、毛糸でつくられた奇抜な人形たちがおかれている。その変な人形を眺めながら歩いていくと、次に、僕たちは暗室のようになった閉鎖された箱のなかに導かれる。そのなかに入ると、無数のオレンジ色というか金色にかがやく飾り(何というんでしょう、クリスマスツリーの飾りつけにつかう紐状になっているシャラシャラした奴)がツリー状にぶら下げられている下を潜り抜けることになる。そして、僕たちは、プロジェクターによって床に投射された、円形の枠のなかに閉じ込められた裸の(だったけ?)女性の姿を目にすることになる。そんな作品だ。
 展覧会のカタログによれば、このインスタレーションは「1990年代後半から現在に至る作家自身の心境の変化に呼応した自伝的作品」ということになるらしい。
でも、個人的には、この作品だけでは、この作家がこのような表現に至った事情というものがよく分からないので、なんとも言いがたいところもあり、困ってしまったのだけれども、ともかくも感じとれたのは、その作品の個人的な感触である。
 知り合いの女の子と話をしていると、ごくたまに、個人的な妄想というか、どこにどう位置づけて良いのかは分からないけれども、ともかくも、その人が個人的に抱えているオブセッションのようなものが感じられることがある。この作品には、そうしたものに触れた時と似たような感触があったのだった*1
 こうした感触は、恐らく、かつてのアプロプリエイションの作品にはなかったように思われる。繰り返しになるけれども、アプロプリエイションの作品では、消費社会によって個人に対して押し付けられる「既成の価値観」を相対化し覆して、場合によっては、無効化することが目指されていた。その時、盗まれる対象は、シンディー・シャーマンの女性のイメージを思い浮かべて欲しいのだけれども、自己の外部にあって、否定的な価値を帯びていたように思われる。その作家たちは、社会のステレオタイプなイメージを盗みはするものの、しかし、本当のところを言えば、そんなものは唾棄すべきものであるという暗黙の了解が見受けられたように思う。既成のイメージは、盗まれはするものの、決して肯定的に捉えられていたわけではない。盗用されるものは、むしろ、自分の内側から排除したものであった。
 それに対して、今回の展覧会の「かわいさ」は、まったく逆の動きをしている。それが盗まれるのは、むしろ、積極的な意味あいにおいてであり、そのイメージは自分の内側に取り込むべきものである。
 ふたたび、ピュ〜ぴるの毛糸の人形に戻ってみる。まず、展示の最初におかれた人形たちが身にまとっていた縞模様のニットの外皮が、人形たちのグロテスクな形態を和らげる効果をもっていたことに注意したい。ぬいぐるみに似たような質感を持つことによって、あの人形たちのおぞましさは消えて、僕たちに受け入れやすいものとなっていた。そして、仮に、あの作品が「自伝的作品」であるとすれば、展示の最初におかれていた人形たちは、作者の自画像を示しているとも考えられる(実際、作者自身、あの人形のコスチュームでパフォーマンスを行うらしい)。とすれば、その毛糸の人形の「かわいさ」は、グロテスクな自我を柔らかく包み込み、観客ないし他者に受け入れられることを可能にする装置であると考えることも許されるだろう。この作品おいて、僕たちの日常的な世界から盗みとられた「かわいさ」は、自己と他者を繋ぐためのコミュニケーションの手段なのである。
 そのとき、消費社会から盗み取られた「かわいさ」は、自己を表現するために積極的な意味あいで援用されていると言うことも許されるだろう。わたしもあなたも好きだろうから、「かわいさ」は盗みとられる。それは、かつてのアプロプリエイションの作家たちに見られたように、自己の外部にあって、腐りきった(?)消費社会から押しつけられたものではない。むしろ、それは、自己を示すものであり、自分から欲して身にまとう衣装である。
 とすれば、今回の展覧会の「かわいさ」は、なにを示しているのか?

*1:その後、ピュ〜ぴるが男性であったことが判明。どうして、女の子の呟きのことを思ったのか?と考え中。