80年代リヴァイヴァル?

 まず、今回の展覧会の「かわいさ」のことで思ったのは、80年代のシミュレーショニズムだとかアプロプリエイションだとか、そういった流れのことで、「イギリスのロックだけでなくて、現代美術の世界にも、80年代リヴァイヴァルが?!」と妙なことを考えてしまったのも事実だった。
言うまでもないことだけれど、80年代の潮流と今回の展覧会の作品群の方法論のあいだに、違うところは沢山あった。でも、それと同時に、その双方に商業主義ないし消費の世界からの借用といった類似の構図も見うけられた。このために、アプロプリエイションという言葉を彷彿としたのだった。
 ここで、今回の展覧会から離れることになるけれども、普通の生活を送っているかぎりでは見慣れない「アプロプリエイション」という用語のことを書いておく。その概略は、松井みどりの説明が分かりやすい。

「アプリプリエイション」という言葉のもとの意味は、「盗用する」というやや否定的なものです。しかし、80年代の美術のなかでは、それは、意識的な戦略となりました。それは、美術史や広告やテレビなど、すでに作品化されているものからイメージを借用して作品を作ったり、あるいは他人の作品を自分の作品として再写真化したり、描き直したりする行為を指しています。その方法は、一見パスティーシュと似ているように感じられます。けれども、パスティーシュが新しいイメージを作るための手段にすぎないのに対し、アプロプリエイションは、消費社会に溢れる「幸福」のイメージを別の文脈に置くことでその意味を変化させたり、あるいは、人間の身体や階級や美についての既成の価値観を媒体している表象の洗脳的な機能を暴きだしたりするための批判的な方法なのです。*1

 個人的なことになるけれども、かれこれ、もう十数年前、「アプロプリエイション」という言葉も知らなければ、現代美術の事情などもよく分からない支離滅裂な状態で、写真に興味をもった頃、一冊の写真集を購入したことがある。シンディー・シャーマンの写真集だ。今考えると、「うわ、なんだ、これ!きもい!」という十代のアナーキーな、というか、無茶苦茶な好奇心によるところが多かったのだけれども(そして、彼女が死体に扮した写真などは、あまり気持ちのよいものではなく、もはや、ブルジョワ的生活モードにどっぷりと浸かりつつある今では、この写真集は実家に置きっぱなしにしてあるのだけれど)、ともかく、その写真集は鮮烈な印象を残した。
 この写真集のなかに「アンタイトルド・フィルム・スティールズ」という一連の作品が掲載されている。この作品郡は、彼女がB級映画の登場人物となりきった様子が撮られたもので、その写真がもっている無機質な質感ゆえに、映画のなかで見慣れているはずの女性のイメージがかえって不気味なものとして浮上してくる仕組みとなっている。つまり、こうした仕組みにより、これらの作品群は「人間の身体や階級や美についての既成の価値観」を揺るがせることになる(重ねて余計な話になるけれど、最近では、やなぎみわの作品なども、これと似たような印象を抱かせることがある)。
 アプロプリエイションという言葉で思い出されるのが、個人的には(そして、一般的にも)、こういったシンディー・シャーマンの写真のことで、つまり、社会に当然であるかのように流通しているイメージを、作品のなかに悪意をもって(というか、良心的にというべきか)転用ないし盗用することによって、そのイメージの底の浅さというか、根拠のなさというか、不気味さを浮上させ、僕たちの価値観を揺るがせようというのが、アプロプリエイションの手法であった。だから、その流れにあるとされる作品のなかでは、現代の(腐敗した?)社会のなかで流通しているイコンが多用される。
 その意味で、今回の展覧会の「かわいさ」のなかに、僕たちは、社会のなかで消費される「かわいさ」のイメージの盗用を見ようと思えば、見ることもできるのかもしれない。

*1:引用は下記の本からです。