この「かわいい」世界

 とはいえ、今回の展覧会の限界というものは、現代美術というジャンル全体に関わるものであることも確かで、決して、メジャーなものとは言えない「現代美術」のあり方を考えてみると、今回の展覧会が外側の世界から遊離してしまったからと言って、その学芸員たちを責めることはできないようにも思われる。
 例えば、アマゾンの検索エンジンに「現代美術」という言葉を入れてみると、「入門」だとか「分かる」だとか、そういったタイトルをもつ書籍がずらりと並べられる。これは、翻ってみれば、僕を含めて普通の生活をしている人間にとって、それほどまでに現代美術というものが遠い存在であって、足を踏み入れるのに躊躇するものであることを示している。それだけ、現代美術自体が社会から「宙に浮いた」存在ではあるというわけだ。
 しかし、こういった状況というのは、今回の展覧会の個々の作品を眺めていると、いささか皮肉であるかのようにも感じられる。なかには、僕たちの日常的な世界から完全に切り離されて、その意味をうかがい知るには、それなりに前提となる知識を要求するものもあったにせよ、その多くについて言えば、むしろ、かなり近づきやすい作品が多かったようにも思われたからだ。
 近づきやすさ、つまり、個々の作品は「かわいさ」という糖衣をまとっているものが多く、ともかくも、今回の展覧会において、「かわいさ」という外観が目立っていた。
その代表例として、まず、奈良美智grafの一連のインスタレーションが挙げられる。そこには、ロビンソン・クルーソーが建てた海辺の粗末な小屋を思わせなくもない空間が設置されていて、そのなかに、奈良の絵画が展示されたり、そうでなければ、雑然とした細々としたものに充たされた部屋が示されている。空間というか小屋をひとつの作品として呈示してみせるというのは、ずいぶんと野心的な試みであるとも思えたけれど、それと同時に、気にかかったのは、その試みの外皮が高品質の「かわいさ」に覆われているということだった。
 例えば、小屋の一部をなすように配置されたコンテナに穿たれた穴を覗いてみると、かわいい子犬たちが様々な方向をむいているのが目に映るような仕組みになっている。注目すべきなのは、ごつごつとしたコンテナの概観のなかに、かわいい子犬たちが隠されている(守られている?閉じ込められている?)という仕掛けだけでなくて、その子犬たちの「かわいさ」そのもの品質で、それらは、何らかの商品のキャラクターとしても充分に成立する品質を備えている。そのくらいのレヴェルまでに「かわいさ」が追求されている。
 こうした「かわいさ」は、マーリア・ヴィルッカラという作家の「だからどうした − 縞馬がアートフェスティバルに行く」という作品にも見ることができる。これは、倉庫と倉庫のあいだの中庭の上空にある、倉庫から倉庫にはられたワイヤーのうえに小さな動物たちが行進している姿を示した彫刻なのだけれども、動物たちの小ささとあいまって、その光景はなかなかにユーモラスで、かわいい。今、彫刻と言ったけれども、実のところ、その姿はおもちゃの動物たちのそれであって、詰まるところ、「かわいい」おもちゃたちが現代美術の展覧会におかれているということになる。
 「かわいさ」は、もちろん、最初からそれを追求するものではない。結果的にかわいくなってしまっているのだ。奈良良智の悪意というか不安定さを底に含んだ絵は言うまでもなくことだけれども、例えば、ヘディ・ハリアントというインドネシアの作家の作品などは、そもそもは「かわいさ」ではない別の場所に向けられていた。展覧会のカタログによれば、この作品「本来は母親の母乳で育つはずの赤ん坊が、あたかも製品のように、生産されているかに見える状況に対する批判」があったらしい。
でも、これも観ようによっては、かなり「かわいい」。まず、ミルク缶というか牛乳パックで作られた牛が、からだに括りつけられた大きなミルク缶を引きずって歩いている姿がある。そのミルク缶のなかに、赤ん坊の首が沢山おかれている。
そういった作品なのだけれど、これには、アジアンテイストというか、何と言うか、下北沢だとかに散在するアジアっぽい雑貨をおいているお店で売られている人形を彷彿とさせる「かわいさ」がある。実際、眺めている最中にも、傍らでは、作家のシリアスな意図を裏切るかのように「かわいい」という声が漏れるのが耳に入ったりもする。もちろん、赤ん坊の首が積まれている情景には不気味さがあって、よくよく見れば、「かわいい」といった解釈は修正されるのだろう。でも、ひとまず、その外観をざっと見るかぎりでは、この作品は「かわいい」。
 今、商品のキャラクター、おもちゃの玩具、下北沢の雑貨屋で売られている人形と書いたが、つまり、その「かわいさ」というのは、日常的な世界で生きているなかで、僕たちが消費している商品の姿を帯びているということである。だから、近づきやすい。こうした傾向を集約して示していたと思われるのが、安部泰輔という作家の作品だった。
 人工芝が敷かれた中央に小屋が置かれていて、その上方には、僕たちが洗濯物のように無数のぬいぐるみが逆さまに吊るされている。そして、中央の小屋のなかでは、黙々とミシンを使って、ぬいぐるみを作っている男がいる。そういったインスタレーション
 確かに、小屋のなかで、黙々とミシンを扱って、ぬいぐるみを作っている男の姿というのも、また、ぬいぐるみが無数に逆さまに吊るされている情景というのも、見ようによっては、それなりに不気味なものではある。
それに、男が継ぎはぎでぬいぐるみを作る、というのが、まあ、余計なことかもしれないけれど、マイク・ケリーという作家のことを思い出させたりもする。だから、男がぬいぐるみを作る、というのは、つまりは、男性中心社会のあるべき規範からの逸脱を示していて、作品がぬいぐるみという物質の形をとることで、男性中心主義である西欧社会が排除してきた幼児性や女性性というものが、デリダがいう幽霊のように回帰してきて・・・とか何とか、そういった話も無理をすればできるのかもしれない。
 でも、素直に見るかぎりでは、その情景はやっぱり「かわいい」だけで終わる。スキャンダラスな匂いはない。
 たしかに、欧米においては、ぬいぐるみが批評の道具として機能するのかもしれないけれど、僕たちが身をおいているのは、職場の机のうえに「かわいい」動物の食玩をおいている「男」の同僚がいても(現実に、そういう人が職場にいる)、普通のこととして受け止めてもらえる社会であり、また、優秀な企業弁護士の「男性」がぬいぐるみを集めることを趣味にしていて、その豊かな経済力にまかせて、ととろの巨大なぬいぐるみやら何やらで、彼の綺麗なオフィスビルの一室をぬいぐるみで一杯にしても(実際に、そういう人がいると聞いたことがある)、「ああ、そうですか」と受け流してもらえる社会である。ぬいぐるみと、その「かわいさ」は、僕たちの社会に対する批評の道具にはならない。
 むしろ、近づきやすさが問題なのだろうと思う。それらの作品が僕たちの日常的な消費財としての商品の形態をとっていることに目を向けるべきなのだろうと思う。実際、安部の作ったぬいぐるみは、千円で購入することができるものだった。ここにおいては、もはや、現代美術の作品は商品でもあるということになる。
その時、「かわいさ」をどう考えるべきなのか。