自由にとどまる

 それにしても、こう見てみると、現代の作家たちは、なかなかに難しいところにおかれていることにあらためて気づかされる。正直、よくも、まあ、この厳しい戦いを継続しているよな、と心から驚かされる。でも、少しばかり心が暖められる。
 グリーンバーグが述べていたことを踏まえて考えるならば、モダニズムの表現においては、あらかじめ、何らかの枠組みというものが社会的に承認され、厳然として存在するように想定されていた。その論理的な帰結が意味するのは、その枠内にいるのであれば、作家たちは、なにを行っても許されるということになる。そのような意味では、作家たちに許される手法ないし資材というものは、その枠内にいるかぎりでは、無限であり、また、ある意味で、作家としての居場所というものは、揺るぎないものであったように感じられる。
 それに対して、今の作家たちは、「ところで、表現しようとは思うんだけれども、どっから手をつけたらよいのかな・・・」という、のっぺりとした戸惑いみたいなところから始めないとならない。どこからどこまでが「芸術」であるのかも判然としない薄暗がりのなかで、とりあえず、目についたものを手にとってみて、自分の表現を組み立てていく。さらに困難なことに、自分の表現を支えてくれる偉大なる大きな物語というバックアップのシステムは、もはや存在しない。モダニズムというしっかりとした城壁のなかで、かつての作家たちが享有できた無限の資源は、今の作家たちには許されていない。焼け野原のジャンクの山に取り囲まれて、なんとか、なにかを表現していくほかないというわけだ。だから、作家たちは、ともかくも、ほかの誰かが作り出した物語ではなくて、その表現を自分で背負い込むことによって支えないとならないのだから、それはそれなりに厳しい。
 さらに、枠が取り外されてしまったがゆえに、逆説的に、今の作家たちは、不自由になってしまったかのように映ることもあるかもしれない。彼らが取り上げて、作品のなかに取り込むことができる資材といったものは、枠が取り外されてしまったがゆえに、かえって不透明なものとなって、ひとつひとつ芸術の名前に値するか否か、といった根源的でクリティカルな問題を突きつけられることにもなる。枠のなかで許された自由は、その外に出てしまったときには許されないことも多い。これはきつい。縛りがなくなったがゆえに、かえって、彼らの用いることができる資材は限定されてしまっている。だから、枠がなくなって、彼らが苦痛や不安を感じたとしても、それを責めることはできないだろう。
 とすれば、どうすべきであろうか。僕たちは、ふたたびモダニズムにとって代わるような枠組みの到来を期待すべきであろうか。誰かにふたたび縛ってもらうことを望むべきであろうか。今回の展覧会の作家たちの回答は、しかし、そういったものではなかったように思う。
 今回の展覧会において、枠がなくなったことに対する不自由さや不安といったものは、少なくても、彼らの表現を見るかぎりでは、まったくなかったように思われる。新しい枠組みや縛りを待ち望むといった姿勢は微塵も感じられなかった。むしろ、そこにあったのは、好きなものを好きなかたちで組み合わせて、作品として提示してみせる作家たちのとりとめのなさであり、また、彼らの自由な姿勢だった。
 その意味で、たしかに、今回の展覧会では、全体をがっちりと纏めあげるような、しっかりとしたテーマがなかったといえば、そうなるのかもしれない。しかし、果たして、僕たちは、そのことに腹を立てるべきなのだろうか。むしろ、今回の展覧会では、作家たちが屈託のなく示してみせる、無数の物語にいったん身を投げ出してみて、そのうえで、それぞれに自分のあたまを使ってなにかを感じとり、そうでなければ、考え込むといった自由なプロセスこそが求められていたのではないだろうか。僕たちは、作品を眺めて、安易に「これは、モダニズムのなになにですね」とか「いや、ポストモダンの視座から申し上げますと・・・」などと強弁することはもはやできない。だから、今回の展覧会では、ゆっくりと丁寧に、ひとつひとつの作品を眺めて、その小声で囁かれる物語に耳を傾けることが求められていたように思われる。
 もし、そうであるとするならば、今回の展覧会において、僕たちが感じとれれば良かったことのひとつは、たぶん、自由の感触であったように思う。確かに、自由というのは、パラドクスを孕んでいて、そんなに安易に考えることは許されないものだろう。自由というパンドラの箱の蓋を開いてみると、厄介な問題が沢山でてくるのは事実である。それでも、たぶん、僕たちは、自由を恐れるべきではないのだろうと思う。大きな物語が終焉を迎えた今、自由から逃げ出さないで、逆に、それを礼儀正しくも楽しむ方法を身につけるときがやってきたのかもしれない、とも思う。僕たちを取り囲んで窒息さてしまうような物語にもう一度逃げ込む必要はない。僕たちは、自由のうちにとどまる。
 そう考えながら、山下埠頭倉庫を後にする。あの旗の下を通りながら見上げると、薄暗くなった空を背景として、マリンタワーの赤と緑のシルエットが浮かんでいるのが目に映る。その下には、あのホテルニューグランドが今も佇んでいる。そういえば、と思い出す。ふつうに歴史を顧みてみれば分かるように、海の向こう側からアメリカの占領軍と一緒にやってきたのは、敗戦だけではなかった。そういえば、自由も一緒にやってきたのだった。そんなことを思いながら、僕たちは、自転車で光の灯された中華街をくねくねと通り過ぎていく。

(終わり)