混血児としてのヤンキー

 ここで気に掛かるのは、そもそも、ヤンキーとは何か?ということだ。今、『SEX』のドメスティックな側面を例に挙げたことからも分かるように、実際のところ、それは、日本固有の文化的状況を示しているものと、まずは、考えることも許されるだろう。そういえば、長淵剛もまた、日の丸を背負ったりするパフォーマンスをしていたようにも思う(いや、きちんと見ていないので、嘘かもしれないけど)。また、場合によって、彼らは、特攻服を着たりもする。
 しかしながら、同時に、福生と沖縄を舞台にしていた『SEX』という補助線を引いてみると分かるのだけれども、このヤンキーとは、アメリカとの関係で捉えるべきものでもある。実際、音楽で言うならば、元祖「ヤンキー系」の矢沢永吉を見れば明らかなように、ヤンキー系のミュージシャンは、ともかくも、「ロックンロール」という言葉に拘り、外国といえば、それは、アメリカ(というか、ロサンジェルス?)である。また、彼らの歌詞の至るところに、文脈を無視した英語が差し込まれ、それがサビにもってこられたりもする。さらに、ヤンキーという語のそもそもの意味は、アメリカ人の蔑称である。
 とすれば、ヤンキーとは、アメリカと日本が出会う場所に立ち現れてくる混血的な文化的現象として捉えることも許されるように思われる。それは、アメリカと日本の混血であり、アメリカの血を受け継いだ私生児なのである。マリファナを吸う代わりに、シンナーを吸うといったような現象からも窺えるように、ヤンキーという現象は、アメリカの誤読であると同時に、過剰でもある。シャコタンのフォルムに見られるように、その破滅的なセンスは、アメリカに端を発しながら、まったく異なるものとなってしまっており、その出自が分かりにくくなっているところがあるにせよ、しかし、それは、アメリカの影のもとにある。
 こう考えるならば、菊地成孔がヤンキーを語る際につかの間に見せる陰りのようなものも納得できる。
 日本のジャズもまた、日本とアメリカの混血児であり、そして、菊地がDCPRGでやっている音楽というものもまた、アメリカの誤読であり、また、過剰でもあるような何かしらであると言えるからだ。骨組みだけを取り出してしまえば、それは、ヤンキーが行っていることと見分けがつかなくなる。そのような意味で、ヤンキーとは、菊地においてもなお、代補と言えるのではないか。

ヤンキーの影

 上條淳士の『SEX』という漫画がある。知らなかったのだけれど、先日、13年ぶりに完結したらしい。高校生の頃、三巻の途中まで読んでいたけれど、長い中断のために「もう、出ないんだろうな」と思っていて、見落としていた。
 舞台となるのは、東京の福生。言わずと知れた米軍基地の街。ここで、やくざに追われて、沖縄から逃げてきた二人の男と、そのうちの一人と幼馴染である女が犯罪に巻き込まれながら過ごす、といったような物語だ。
 ここで、最初に打ち明けるならば、それを本屋で見つけたときは、心が躍った。高校以来ずっと終わらなかった漫画だ。どういう風に展開したんだろう?と気になっても許されるだろう。
 しかし、久々に読んでみて驚愕したのは、ここにある世界観というのは、ヤンキーのそれであるということである。もちろん、シャープな絵の力は大きく、また、米軍ややくざが絡むといった舞台装置もよく機能しているとは思う。だから、一見すると、そこに、ヤンキー臭さはないようにも思われるかもしれない。とはいえ、しかし、その根底を流れるのは、やはり、ヤンキーの世界観である。
 日本的な環境に生きていれば、ヤンキーの世界観を経験的かつ直感的に理解できると思うし、万が一、分からないという方がいても、川崎あたりの自動車学校に行って、髪の毛の色をまだら状に脱色している若い人の傍らに座って、その会話を盗み聞きしてもらえれば、その世界観は会話の端々に滲み出てきて、10分ほどでそれを把握できると思われるので、ここでは、くだくだと述べることはしない。
 その代わりに、『SEX』のヤンキー的世界観を端的に示していると思われる例をひとつだけ挙げることにすれば、登場人物たちの地元に対する拘泥がある。
 物語の始まりで、主要登場人物の女性カホが、福生にある米軍ハウスを毎日のように眺めて、幼馴染の男ナツを思い出していたといったエピソードが語られている。ここで、米軍ハウスというのは、福生の提喩と読むことができるわけだけれども、ここに、ヤンキー的世界観を見い出すことができる。
 ヤンキーと呼ばれる社会階層は、端的に言って、地元に拘泥する(というよりも、地元しか知らないのかもしれない)。カホの米軍ハウスに対する感情は、それとパラレルをなしていて、彼女の米軍ハウスに対する湿った思い入れ、というか、拘泥はいかに綺麗に語られようとも、ヤンキーの地元に対する愛着を思い出させる。ヤンキーが最初にデートした場所(チネチッタ川崎?とか)に拘るのと同じような意味合いで、カホは米軍ハウスに拘泥している。
 また、それは、他の登場人物にも言えて、例えば、ユキという男性の登場人物は「沖縄であれ、福生であれ、自分は米軍基地の金網がある土地から逃れることができない」といった内容のことを述べているいるけれども、これだって、端的にいえば、地元ではない世界を知らないヤンキーのことを彷彿とさせる。さらに、ヒガという登場人物に至っては、やくざであり、地元である沖縄が本土からきた暴力団に支配されそうになると、「誰だろうと、沖縄は奪らせねえ」と、まさしく、自分がヤンキーであることを打ち明けてしまったりもする。

ヤンキー批判序説

 菊地成孔の『CDは株券ではない』をお風呂に入りながら読んでいたら、ナンシー関の「日本人はどんなにあか抜けて見せようとファンシーとツッパリからは逃げられない」という言葉が引用されて、長渕剛の曲が紹介されていた。
 ナンシー関の原著にあたっていないので、この本の文脈だけで述べると、例えば、90年代の渋谷系と呼ばれる音楽のようなものは、長渕剛的なもの、つまり、ヤンキー的なものと対向するものとされていて、とはいえ、「渋谷系」がいつしか忘れ去られようとしているのに、「ヤンキー系」は依然として生き残っている。「ツッパリから逃げられない」とは、そのような状況を指す。
 事実、あなたの傍らにも、熱心な長渕剛やB’zの聴き手はいるはずだし、彼らの曲はことごとくヒットチャートの上位に食い込む。何というか、僕たちは、そういった恥ずかしい状況におかれている。そう、日本の文化状況においては、今もなお、「ヤンキー系」こそがメジャーであり、当然の前提とされている。
 しかし、問題はより深刻なものであるとも言える。というのも、「ヤンキー系」が当然の前提とされているということは、つまるところ、今、渋谷系を例にとったけれども、それから身を翻して、なにか違うことをしようとしたとしても、なお、その音楽は「ヤンキー系」の影の下にあるとも考えられるからだ。「ヤンキー系」は、いかに否定しようとも、代補のようなものとして、それに影のようにつきまとって、戻ってくる。このことを批評してみせたのが氣志團の音楽であって、それは、僕たちが「ツッパリから逃げられない」ことをシニカルでシリアスな笑いとともに示している。

テレビキッズの憂鬱

 ところで、思い出すのは、『ドラッグストア・カウボーイ』の終わりのことで、そこでは、薬を濫用することで、何処かに行くことができると信じられた時代の男がのっぺりとした時間を生きる少年に刺される場面で、物語が終わっていた。男がそこで死んでいたとすれば、それはそれで、まだ、マシな死に方だったようにも思う。出口はおのずから訪れてくれた。
 しかし、今述べたように、『ラストデイズ』では、男には、もはや、信じられる出口も残されておらず、まともに死ぬことさえもできない。ドラッグストア・カウボーイを刺した少年は、もしかしたら、そんな男になって、90年代を迎えていたのかもしれない。今にすれば、そんなことを思う。

Rape me, rape me.

 では、『ラストデイズ』では、どうか。そこに救済はあるのか。
 そこでは、『エレファント』と同じように、長廻しが使われて、かつてほどは執拗ではないものの、同じ時間が反復される。森のなかを歩きまわる男。冷え切った屋敷のなかの錯乱。それは繰り返される。確かに、『エレファント』の少年少女たちと同じように、若さの終わりを迎えつつある男には、出口がない。
 でも、そこでは、カタルシスが準備されていない。虐殺者はやってこない。彼は、殺されることができない。そんな場面はないけれども、仮に、彼が「殺してくれ!殺してくれ!」と泣いて叫んだところで、誰も殺してくれない。気を失っていても、放っておかれるだけだ。
 最悪なのは、彼が自殺したところで、それさえも「死から誕生までの長くて孤独な旅路」の始まりでしかないということだ。生から死、死から生。同じことの繰り返し。何処にもいけない。死、死、死、死のループ。なにも始まらない。なにも終わらない。
 そこでは、もはや、カタルシスがやってくることはない。そう信じることもできない。だから、救いはまったくのところない。そこでの挨拶は「Hello, hello, hello, how low?(hell low??)」ということになるのかもしれない。
 

Why don't you kill me?

 ガス・ヴァン・サントの『エレファント』では、長廻しのシークエンスが多用されている。でも、同時に印象的なのは、同じ時間が異なったかたちで執拗なまでに繰り返されているということだ。虐殺に至るまでの数時間が何度も何度も繰り返される。
 それを眺めていると、暗がりのなかで、冷たく輝いている廊下の光景とあいまって、ふと、僕たちは、それが数時間のなかで起こったことではないかのような錯覚に陥る。のっぺりとした時間軸が反復され、ずらされるという描写によって、そのような日常が幾度となく、うんざりするほど、いや、窒息するほどに繰り返されたのだという印象をもつことになる。
 だから、僕たちは、性急かもしれないけれども、たぶん、そうだったのだろうと結論づける。少年は、日々、朝から泥酔した父親を自動車に乗せなければならなかったのだろうし、ぶすな少女は、体育の授業のたびに更衣室で嘲りの言葉を投げかけられなければならなかったのだろう。トイレで、ダイエットのためにゲロを吐くのは、自信がなくて、しかも、個性のない少女たちの日常だったのだろう。
 そう考えると、『エレファント』は、時として、陰惨な虐殺を描いたのではなくて、救済の物語であるかのようにも映ってくる。ぶすな女の子の無残な日常は「ぱーん」という軽い銃声で終わりを告げる。そこで、彼女の出口なしの生活は終わる。10代の陰惨で泥濘のような日々は、綺麗な青空の向こうに消えてなくなる。
 いくらか残酷に響くかもしれないけれど、10代のリアリティーというのは、そういったものではなかっただろうか?いつか、何処かで、カタルシスがやってきて、僕たちを連れ去ってくれることが信じられた時代。まだ、そこには、救いがあった。

今年を予想する

 それじゃあ、今年はどうなのか、と言われると、1ヶ月に1度くらい書いていくという感じになるんじゃないかと思われます。とりあえず、今は、森達也のことを書きたいな、と思っております。