ヤンキー批判序説

 菊地成孔の『CDは株券ではない』をお風呂に入りながら読んでいたら、ナンシー関の「日本人はどんなにあか抜けて見せようとファンシーとツッパリからは逃げられない」という言葉が引用されて、長渕剛の曲が紹介されていた。
 ナンシー関の原著にあたっていないので、この本の文脈だけで述べると、例えば、90年代の渋谷系と呼ばれる音楽のようなものは、長渕剛的なもの、つまり、ヤンキー的なものと対向するものとされていて、とはいえ、「渋谷系」がいつしか忘れ去られようとしているのに、「ヤンキー系」は依然として生き残っている。「ツッパリから逃げられない」とは、そのような状況を指す。
 事実、あなたの傍らにも、熱心な長渕剛やB’zの聴き手はいるはずだし、彼らの曲はことごとくヒットチャートの上位に食い込む。何というか、僕たちは、そういった恥ずかしい状況におかれている。そう、日本の文化状況においては、今もなお、「ヤンキー系」こそがメジャーであり、当然の前提とされている。
 しかし、問題はより深刻なものであるとも言える。というのも、「ヤンキー系」が当然の前提とされているということは、つまるところ、今、渋谷系を例にとったけれども、それから身を翻して、なにか違うことをしようとしたとしても、なお、その音楽は「ヤンキー系」の影の下にあるとも考えられるからだ。「ヤンキー系」は、いかに否定しようとも、代補のようなものとして、それに影のようにつきまとって、戻ってくる。このことを批評してみせたのが氣志團の音楽であって、それは、僕たちが「ツッパリから逃げられない」ことをシニカルでシリアスな笑いとともに示している。