横浜港の午後

 横浜の中華街を抜けて、そのまま海に向かって自転車で走っていくと、山下公園に突きあたる。その先は、海になっていて、第二次大戦中は日本海軍の病院船として使われたという氷川丸が浮かんでいる。
 銀杏の、並木の通りをわたって、自転車を降りて振り返ってみれば、古めかしいけれど、それなりに格調のあるファザードを備えたホテルニューグランドがある。ホテルニューグランドが建築されたのは、関東大震災に起因している。横浜もまた、関東大震災で壊滅的な打撃を受けたのだった。そして、当時の横浜市と経済界は、震災の復興の一環として、ホテルニューグランドを建築した。だから、大げさにいってしまえば、震災の復興の記念碑として、ホテルニューグランドがある。
 それからほどなくして、昭和大恐慌がやってきて、うかうかとしている間に、僕たちの国は泥沼の戦争に入っていった。そして、僕たちの国は歴史の回廊を通り抜けて、敗戦に辿りついた。
 マッカーサーが厚木に降り立ったのは、8月30日のことだった。巧妙に演出された彼の登場は、僕たちにそれなりになじみあるものなのではないだろうか。マッカーサーはコーンパイプを咥え、サングラスをかけ、戦闘機のタラップを降りる。たしかに、占領の始まりを示すにしては、あまりにポップなイメージではあるけれど、それは、まるで、僕たちの赤ん坊の頃の記録であるかのように僕たちの一部になっている。
 とはいえ、同時に、そうしたイメージが創出された直後、マッカーサーが横浜に向かったことは、あまり知られていない。厚木から横浜までの距離は、だいたい30キロメートル。マッカーサーはこの道程を一気に駆け抜けた。東京湾上のミーズリ艦で行なわれる調印式が9月2日に迫っていたからだ。つまり、彼は、僕たちの国の降伏の調印式において、勝者として演説するために、横浜に向かったということになる。そして、横浜に到着したマッカーサーが宿泊したのがホテルニューグランドだった。
 今でも、マッカーサーが泊まった部屋はこのホテルに残されている。だから、ささやかながらも、日本の敗戦、そして、占領の記念碑として、ホテルニューグランドは今も佇んでいる。