郊外生活者のファンタスム

 それにしても、この不可視の危険とそれに対する不安の意識、それから逃れるためのプロテクターという図式は、どこかで見たことがなかっただろうか。突飛な連想という人もいるかもしれないけれど、でも、僕たちは、ジョン・チーヴァーの短編小説「ランソン夫妻の秘密」のなかにも、これと似たような構図があったことを思い出す。
 読んでいない人もいると思うので(なにしろ、分かっている限りでは、ジョン・チーヴァーの訳本は絶版だから)、余計な説明をすると、ジョン・チーヴァーの「ランソン夫妻の秘密」という短編小説には、これといった物語はない。
 郊外に住んでいるランソン夫妻はそれぞれ相手方に言うことができない不安をもっている。妻は、夫と一緒のベットのなかで、「月に一度か二度、敵か、運の悪いアメリカ人のパイロットか誰かが水爆を爆発させてしまう夢」を見る。でも、夫には、それを伝えることができない。夫は、自分の精神が変調をきたして、不安で不安で仕方がない状態になった時(たまにあるよね)、ケーキを焼くことによってしか精神の安定を回復することができない。でも、夫も、妻にはその秘密を伝えることができない。何というか、これだけの話である。
 でも、細かいところを見ていくと、それなりにそれなりのことが書かれている。特に、重要だと思うのは、この物語の舞台が郊外におかれていて、ランソン夫妻自身が郊外のモラルとでも言うべきものに偏執的に拘泥しているというところだ。つまり、彼らは「変化を、秩序が少しでも乱れることをひどくおそれて」おり、また、「地域美化の問題」に実に積極的であり、それに対して「彼らの家にカクテルに招待される人間がいたとしたら、退散する前におそらく町の秩序を保つ嘆願書に署名」を求めるほどまでに度を越えた拘りをもっている。
 もう予想がついた人もいるかもしれないけれど、こうした秩序維持に対するランソン夫妻は、不可視の危険に対する不安に由来している。
 つまり、「彼らはつねに門のところに見知らぬ人間」、つまり、「風呂にも入らない、不潔な、陰謀を企む他所者」や「庭のバラをダメにしたり不動産価値を損ねたりする始末に負えない子どもたちの父親」や「ニンニク臭い息をし、本を持った男」がいると想像して、自分たちの生活を脅かすのではないかという不安を抱えて生きている。
 だからこそ、彼らは、外形的な秩序、つまり、「地域美化の問題」に拘泥する。外形的な秩序が保たれている限りにおいて、彼らは、まだ眼に見えない危険が訪れていないことを探知することができる。逆に、その危険に対する不安から逃れるためには、彼らはマニアックなまでに外形的な美しさや秩序を保ち続けなければならない。
 こういった具合に見ていくと、ランソン夫妻にとって、郊外の整然とした街並みや秩序は、彼らにとっての眼に見えない危険から自らを守るもの、つまり、プロテクターとして機能していることが分かるだろう。一方には、妻が逃れることができない水爆の悪夢のように、目に見えない危険に対する不安があり、他方には、その不安を何とか押しとどめるための郊外の美しい街並み(つまり、プロテクターだ)がある。
 この構図は、僕たちの器官では探知することができない潜在的な危険とそれに対する不安、そして、そういった危険から身を守るためのプロテクターという、ヤノベの作品に見ることができたものと同じものである。ここにおいて、ヤノベのファンタスムとジョン・チーヴァーが描いた50年代アメリカの郊外生活者のそれが響きあっている。

 もう、ほとんどあからさまになってしまったと思うけれども、ヤノベのファンタスムは、郊外生活者のファンタスムに由来していて、ヤノベの作品もそこから見てみると、意外とそれなりの統一感をもって理解することができる、という結論に僕たちはたどり着きたいわけだけれども、そういった結論に触れる前に、少しだけ寄り道をするとすれば、チーヴァーが描いていた(そして、ヤノベも共有している)このファンタスムは、アメリカの大衆文化にそれこそ反復強迫のように繰り返して現れてくるものである。
 例えば、デヴィット・リンチの『ブルー・ヴェルヴェット』がある。表面的には、静かで綺麗な緑に溢れる郊外がある。しかし、その街は、夜になると、男が鞭で打たれて、殺害される現場となる。彼らがその悪夢から身を守るためには、それから目を逸らして、美しい郊外の光溢れる光景に視野を奪わせておくほかない。そうしなければ、彼らは自らのうちの不安を押しとどめることができない。どうだろうか。ほとんどチーヴァーの短編のヴァリエーションとして感じられるのではないだろうか。
 また、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ 死者たちの夜明け』もある。舞台となったのは、郊外のショッピングモールであり、そこに、ゾンビたちが集まってくる。表向きには、巨大で清潔な郊外のショッピングモールがある。でも、実際のところ、そこをうろうろと歩きまわっているのは、皮膚が爛れ腐りかけた郊外の人間たちである。
 ここまで書けば分かると思うけれど、ゾンビは郊外生活者のメタファーとして考えることができる。ここではもはや、目に見えない危険は僕たちの内側に入り込んでいて、僕たちと見分けがつかない。僕たちのお隣さんは、明日には、ゾンビになって、僕たちをわしわしと食い尽くしてしまうかもしれない。そうでなければ、僕たち自身がゾンビに噛まれて、ゾンビになってしまうかもしれない。そういった目に見えない危機に対する恐怖がある。
 じゃあ、どうやって身を守るのか。『ゾンビ 死者たちの夜明け』では、ジョンピングモールをトラックで閉鎖して、ゾンビたちをそこから締め出す。そうやって、登場人物たちは身を守る。ここでは、ショッピングモールがプロテクターとしての役割を担っていることが分かるであろう(そういえば、このショッピングモールの電力が原子力発電によって供給されているのは、ただの偶然なのだろうか)。郊外のショッピングモールは、ヤノベのアトムスーツと同一の機能を与えられているわけだ(もちろん、説話論的なレヴェルの話ではあるにせよ)。

(後編に続く)