目に見えない危険とアトムスーツ

 そもそも、ヤノベが恐れている「放射能」とは何であろうか?彼は何から身を守りたいと思っているのか。もちろん、文字通り、それは「放射能」であると考えもあるだろう。言うまでなく、それはひとつの解釈であり、正しいと思う(事実、ヤノベは、美浜原発事故を恐れるがあまりに、アトムスーツの原型をなすイエロースーツを作り出している)。
 でも、恐れている対象をそれだけに絞ってしまうのは、やっぱり、あんまりだ。ヤノベケンジという存在を軽く見過ぎていやしないかという気がする。彼をただの分裂病患者かパラノイアとして扱うのではなくて、シリアスな作家として扱うのであれば、「放射能」をより普遍化して考えてみる必要があるだろう。

 では、ふたたび、ヤノベにおいて、「放射能」とは何か?
 まず、現実において、放射能が不可視の存在であるということに注意すべきだろう。放射能は、眼に見えないものであって、ガイガーカウンターという装置を通じてのみ、僕たちが探知できるものである。そして、そのことは、彼がガイガーカウンターもどき(「ガイガー・チェック」)を作成していたことから明らかなように、それが意識されているか否かは別として、彼の作品に影響を与えている。
 とすれば、こういうことになる。ヤノベの恐れている対象とは、結局のところ、僕たちにとって、不可視の存在であって、僕たちが本来持っている器官では探知することができない、そういった性質を持つものである。
 このことは、それなりに大きな意味を持っているように思われる。というのも、こういったコンテクストにおくならば、ヤノベのいう「サヴァイヴァル」がそれなりに実感をもって感じられるからだ。
 実際のところ、僕たちにとって、僕たちを脅かすかもしれない危機は、なんらかの媒介なしには探知することができないものである。僕たちの眼の前に危機が姿を現すためには、テレビのブラウン管や新聞の紙面、そうでなければ、パソコンのウィンドウという何らかのメディアが不可欠である。メディアなしには、危機は顕在化することがない。
 放射能ガイガーカウンターというメディアなしには探知できないように、僕たちをとりまく現状において、僕たちが身を守るべき恐怖の対象は、メディアなしには把握することができない。その意味で、僕たちを取り巻いているかもしれない危機は、だから、放射能と相似形をなしている。
 とすれば、ヤノベは、決して、突飛な妄想に導かれて、放射能を扱っているわけではない。むしろ、僕たちの時代の危機のあり方を明確に把握していると考えるべきである。

 問題は、こうした危機のあり方は、僕たちを虚ろな不安へと追いやるところにある。今述べたとおり、危機はメディアを通じてのみ探知可能なものであり、僕たちが本来持っている器官では感じることができない。とすれば、僕たちは、たとえ、目の前に危機があるとしても、それを避けて安全な場所に逃げることができない。
 こうした状況におかれた時、僕たちは、まだ顕在化してはいない、潜在的な危険に怯え、根拠のない虚ろな不安を抱えて、生活することになる。そうした不安を抑えて(抑圧して?)、精神の安定を保って「生き延びていく」ためには、常に、僕たちを守ってくれる、何らかの外皮のようなプロテクターが必要となる。例えば、アトムスーツのような。
 この時、ヤノベが言っていた「サヴァイヴァル」という言葉は、より身近に感じられるのではないだろうか。つまり、ヤノベの「サヴァイヴァル」とは、僕たちが内側に抱え込んでいる不安に抗して「生き延びていく」ことなのである。そして、それを可能にしてくれるのは、現実には役に立たないにせよ、アトムスーツに代表されるような、僕たちの身体を包みこんで守ってくれるプロテクターなのである。
 こう考えてみると、ヤノベの作品は、不可視の危険とそれに対する不安の意識、それから逃れるためのプロテクターという大雑把な構図に落とし込むことができるように思われる(もちろん、ヤノベに失礼に近いくらいに大雑把だけれども)。