サヴァイヴァルという妄想

 この本を概観するかぎりにおいて、ヤノベケンジの作品には、ふたつのテーマがあるように思う。
 ひとつは、身体ないし自己の保護とでもいえばよいようなテーマだ。例えば、「タンキングマシーン」がある。これは、身体を包みこむような機能をもった彫刻とでも言えばよいのであろうか、卵型の中が空洞になって、人間が入り込むことができるようになった装置である。また、「ブンカーブンカー」という名前(なめてますね)の核シェルターもある。ほかの核シェルターと同様に、これも、僕たちの外皮となって、僕たちを核の後の世界から守ってくれる機能を持っている。さらに、もうお馴染みになっているのではないだろうか、アトムスーツがある。これら全てにおいて、身体を包みこむような機能が組み込まれており、言うまでもなく、その目的となるのは、身体ないし自己の保護である。
 もうひとつのテーマは、身体ないし自己の保護というテーマと密接に関連するけれども、放射能に対するオブセッションである。このことは、アトムスーツにガイガーカウンターが取り付けられ、また、放射能をきちんと遮断するように作られていること(そう、きちんと遮断するようです)や、「ガイガーチェック」という名前の、100円玉を入れて放射能を測定するガイガーカウンターもどきの作品や、「アトム・カー」と呼ばれる「100円硬貨3枚を投入することにより搭乗・走行可能だが、車に装着されたガイガー・カウンターが10回放射能をカウントすると車の全機能が停止する」といった作品があることからも示されている。言うまでもなく、先ほど触れた「森の美術館」は、放射能に対する特別な意識を強く感じさせるものであった。
 これら二つのテーマを統合するのは、それほど困難なことじゃない。というか、むしろ簡単だ。つまり、ヤノベの作品の多くは、放射能に代表される「危機」から身体ないし自己を守るための装置という体裁をとっている。とすれば、僕たちは、言葉をどのように選ぶのであれ、ヤノベの作品のなかに「危機から自己を守る」といったテーマを導いても、それほど的外れなことではないだろう。
 もっとも、ヤノベにおいては、このことをよりクリアーな言葉で表している。つまり、ヤノベは「サヴァイヴァル」という言葉のもとに自らの作品たちを語っている。だから、ひとまずは、僕たちも、ヤノベに従って、「サヴァイヴァル」という言葉を使って考えることにしよう(もちろん、この言葉が意味するのは、僕たちにおいては、「危機から自己を守る」ということである)。
 さて、「サヴァイヴァル」である。この言葉はどこまで真剣に捉えるべきだろうか。それは、最初の問題となる。僕たちは、まず、額面どおりに「サヴァイヴァル」という言葉を捉えたいと思う。あくまでも、ヤノベは「サヴァイヴァル」という言葉をシリアスに発しているという前提で考えるべきだと思う。
 もちろん、その作品たちは、今まで見てきたように、場合によっては、悪ふざけに近いものもある。見た目も人を馬鹿にしたところがあるし、だいたい「ブンカーブンカー」という馬鹿げた名前をつけられた核シェルターの中には、緊急用のお菓子まで準備されている。これらをもって、「サヴァイヴァル」というヤノベの発話自体が悪趣味な冗談なのではないか、という立場もあるにはあるだろう。
 でも、この批判はあまり当たっていないように思う。
 まず、世代的な問題もある。ヤノベは、シリアスなことをシニカルにしか伝えることができない(或いは、シリアスなことをそのまま伝えることにとても強い抵抗を感じる)世代に属している(この辺りのことは、北田暁大の『嘲う日本のナショナリズム』を参照)。だから、むしろ、子どものような悪ふざけは、ヤノベにおいて、シリアスな事柄を伝えるために必要不可欠なものと考えるべきであるように思う。
 もうひとつ余計なことを言えば、常識的に言って、どうだろうか。真剣な顔をして「僕は放射能が怖い」と言った時、僕たちは、つまり、ヤノベの同時代人は、その言葉をシリアスに受け取るだろうか。ティム・オブライアンの『ニュークリアエイジ』じゃなけれど、大人が真顔で核シェルターを作るために、自分の庭に大きな穴を掘り出したら、その家族はどう思うだろうか。「お父さん、あたまがおかしくなっちゃった・・・」と思うのではないだろうか。少なくても、彼の廻りの人間は、彼の述べることをまともに受け取らないのではないだろうか。
 いや、そこにまで至らなくても良い。例えば、あなたが「核戦争が怖いんだ、怖いんだ、怖いんだ」と言いながら、汗まみれになって、夜中にベットのなかで恋人の手を握り締めるといった情景を想像して欲しい。恐らく、その段階で、あなたとあなたの恋人の関係は、世界の終焉のまえに終末を迎えるのではないだろうか(あなたがとっても幸運ならば、翌朝、カウンセラーのところに連れていかれるだけで終わるかもしれないけど)。
 だから、ヤノベの「サヴァイヴァル」という言葉を悪ふざけとして考えるべきではない。この言葉はとても深刻なものとして扱われなければならない。

 それはそうであるとしても、しかし、どうもしっくりいかないところはある。つまり、「サヴァイヴァル」という言葉があくまでシリアスなものとして発せられているとしても、しかし、この時代において、本当にその言葉はシリアスなものとして響くのだろうかという問題だ。現実的に考えるならば、「サヴァイヴァル」が強く求められるような状況に、ヤノベと彼の作品を受容する僕たちはいない。そうであるにも関わらず、なぜ、「サヴァイヴァル」が求められるのか。そういった問題だ。
 確かに、今、海の向こう側のイラクを見れば、毎日のようにイラク人とアメリカの片田舎からやってきた州兵が殺し合いを続けているかもしれない。そうでなければ、パレスチナでは、それこそ「サヴァイヴァル」という言葉は切実なものとして響くであろう。でも、それはそれとして、海の向こう側の話だ。幸運なことに、僕たちは(少なくても、ヤノベの作品を美術館にまで見に行くことができるような、物好きな僕たちは)、今のところ、「サヴァイヴァル」という言葉を深刻なものとして受け止めるような日常を送っていない。
 過去を振り返っても、そう言うことができる。例えば、オウム真理教による一連のテロリズムが続発していた1995年の春でさえ、僕たちは、どこかしら、それを冗談というか虚ろなものとして考えていたのではないか。もちろん、あの頃、井の頭線に乗りながら、荷物棚をぼんやりと眺めては、「サリンの袋とか、ないかな」と考えたこともなくはなかった。でも、それはいわば妄想に近い想像であって、現実にそんなことを考えて、「いえーい、都会の街で、サヴァイヴァルだぜ!」なんて、僕たちはそんなことは思わなかった。
 こうしたところからすると、ヤノベの述べている「サヴァイヴァル」という言葉は、どうにも座りがわるい。彼が真剣であることが分かるだけに、かえって、「なんで、サヴァイヴァルなの?」という疑問が沸いてきてしまう。現実の長閑な光景を前にすると(不況だ、赤字国債だ、グローバリズムだと声高に言われたところで、でも、僕たちの前では、ニューオリンズのように、水死体が転がっているわけではないし、スーダンのように、ジェノサイドが行われているわけではない)、ヤノベの「サヴァイヴァル」は、ほとんどファンタスムに近い。いや、ファンタスムそのものと言うことも許されるだろう(ヤノベ自身「妄想」という言葉を使っている)。
 そうだとすれば、僕たちはそのファンタスムをどのように解釈すべきだろうか。なぜ、「サヴァイヴァル」という言葉が真顔で口にされなければならなったのか。彼は、本当のところは、何から「サヴァイヴァル」する必要があったのか。