ヤノベケンジとは何か?

 こうして、僕たちは、時として、遠くから響いてくる「ジャイアント・トらやん」の「ががあー」という叫びに苦笑させられながら、「キンダガルテン」と名づけられたヤノベケンジの企画展示を後にすることになる。
 それにしても、その展示の全てをみたところで、ヤノベケンジとは何だろう?という疑問はあたまのなかを巡っている。正直に言って、捉えがたいところがある。ハイカルチャー然した作品とはかなり異なっていることは、先ほど述べたとおりだ。しかし、かといって、その作品は、おなじみのハイカルチャーサブカルチャーという図式を崩すものとして意図されているわけでもない。
 確かに、その作品は、表向きには、例えば、村上隆の「スーパーフラット」と結びつけることもできるかもしれない。「スーパーフラット」とは、日本の伝統的な平面描写の技法を用いて、アニメーション的な形象を描いていくという、あれ、である。アニメーション的な形象を用いるという意味では、ヤノベの「アトムスーツ」や「ジャイアントトらやん」は、村上の作品と軌道を一緒にしているところもあるにはある。
 でも、同時に、ヤノベケンジの作品にあっては、ハイカルチャー流入するものとしてのサブカルチャー(しばしば、村上の言葉において、こうした図式を仮構しようという意図が仄見える瞬間がある)といったテーマは、それほど重要なものであるとは思えない。少なくても、そこには、村上のようなサブカルチャーの擁護と顕彰といった熱情はまったくと言ってよいほど感じられない。むしろ、その作品群やプロジェクトのひとつひとつをゆっくりと見ていくと、ハイカルチャーサブカルチャーといったような手垢にまみれた二項対立ないし葛藤の不在のほうが目立つように思われる。
 とすれば、この作家を解釈するために必要な問題系は別の場所にあるのではないか。そんな気がしてならない。では、その問題系とは何か?
 そんなことを考えて、ミュージアムショップで、『YANOBE KENJI 1969-2005』というヤノベケンジのこれまでの作品を収めてある作品集(3900円でDVD付というのは、考え方によっては、かなり安いと思う)を購入する。

(中編に続く)