森の映画館

 部屋を移る。すると、なにやら暗がりの中に「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるような小屋がおかれている。小屋の傍らには、先ほどの黄色い「アトムスーツ」を着用した腹話術人形が立っている。解説によれば、人形に装着されたガイガーカウンターが自然界にある放射能を感知した時に、その人形は立ち上がって踊りだすらしい。
 それと同時に、小屋のなかがなにやら騒がしいことに気づく。なにしろ、その人形くらいのサイズでなければ、その小屋のなかを覗き込むことができないようになっているものだから、僕たちは、腰をかがめて、その小屋のなかで何が起こっているかを確かめようとする。
そこでは、映画が上演されている。その映像をどこかで見たことがあるような気もする。僕たちは冷戦の末期に生まれた子どもたちだったけれども、でも、核戦争の情報については、NHKの多くの夏の番組で収集済みだ。冷戦開始直後の50年代アメリカでは、こんなにゆるくて甘い認識で核戦争が捉えられていたということを例証し冷笑するために、NHKの番組では、50年代アメリカで実際に使われていた「核弾頭から身を守る方法」の教育フィルムを使っていた。それと似たものが流されている。
 フィルムのなかで、眩い光が子どもたちを襲う。子どもたちは、それを受けて、すぐに教室の机の下やハイキング用のナイロン製の敷物の下(!)に身を隠す。そうすれば、放射能から身を守ることができる。「身を伏せろ、身を伏せろ、そうすれば、安全!」。フィルムはそのように推奨する。
 ともかくも、ここには、ヤノベの強烈な皮肉がある。一方には、核に対して、あまりにナイーブで愚かな映像フィルムがあり、他方には、ガイガーカウンターを身につけ、放射能を探知すると踊りだすという、核戦争を嘲笑うかのような腹話術人形がおかれている。シリアスに作られたフィルムの、核に対する認識の甘さ。そして、ふざけて作られてはいるものの、きちんとガイガーカウンターを備えて、放射能を感知することができる人形のシリアスさ。それを同時に配置することによって、20世紀の人間の核に対するアンヴィバレントな感情とでも呼ぶべきものが浮かび上がってくると言うこともできるかもしれない。そこまでは、分かる。
 でも、ヤノベの作品には、それを超えて、何かが存在しているような気がする。それが何だろうと考えてみるけれども、まだ分からない。