信じることと書くこと

 なんで、保坂和志の『小説の自由』を紹介するのに、いきなり、イエス・キリストの話をし始めたかというのは、正確なところは、現段階の僕には分からないのですが、この本を読んでいて、まず、思い出したのは、その懐疑に懐疑を重ねて、その上で、なお「磔になっちゃっても、僕は救世主!」と信じることを止めなかったキリスト(僕の勝手なイメージ)の姿を思い出したためであり、恐らく、彼の信じることを止めなかったというところと、小説家が書き続けるという行為の間には、ひとつの類似性があって、そのことを思ったからこそ、キリストのことから書き始めないとならなかったのだろうと思います。

 より詳しく述べるならば、小説家が小説を書きはじめる時というのは、保坂によれば、まだ、なにを書くのか、ということが決まっていないところから書き始めるということになります。というよりも、保坂においては、小説というものは、書き始め、書き続けることによって、「開かれてくる」ものであり、恐らく、保坂の「開かれてくる」という言葉は、ハイデガーに由来するものと考えられるのだから、小説を書き続けることによって、新しい地平がどんどんと目に入ってくるという、そういったことになるのだろうと思われます。

 しかしながら、僕が思うのは、逆にいえば、小説を書くことによって、その地平がどんどんと目に入ってくるという保証はどこにもないわけで、さらに言えば、その書くという行為自体に何かしらの意味が自分に与えられるという保証もまったくない。もっと実も蓋もない話をすれば、新しい地平自体の存在さえ怪しい。
 そうであるにも関わらず、小説家は、その地平が開けてくることを信じて書き続けるということになるのであれば、その行為は、僕がイメージしたようなキリストの姿と重なるということになります。つまり、キリストが復活の時点から逆算して、すべての行為を位置づけることができなかったのと同じように、小説家もまた、開けた地平から逆算して、何かを書くということはできないわけです。
 この世界に余剰が残されているかか否かに対する懐疑、その懐疑を経たうえでの、その余剰についての確信、その上で、その呪われた部分に、なんとか言葉を届かせようとすること。小説家が書くという行為のなかには、こういった恐ろしいまでの入り組んだプロセスがあると、保坂は述べているように思われます。
 その時、キリストとの対比でいえば、小説家が書くという行為の中には、なんらかの狂気が宿っているようにも思え、その狂気というのは、恐らく、自分が書くという行為によって、どこかとんでもないところに連れて行かれても構わないという、そういった決意というか、ついには、丘の上で磔にされちゃっても仕方がないという諦観を含んだ肯定感というか、そういった類のものになるように思われます。いや、そもそも、小説がいまだ書くべきものを持っているということを信じること自体に、僕は頼もしい狂気を感じてならない。
 ここで、保坂和志が偉いと思うのは、その狂気を受け入れるという姿勢の中に、じめじめとした悲壮感や馬鹿馬鹿しい使命感みたいなものが一切感じられなくて、むしろ、「そういうもんなんだよね」といったようななし崩し的な態度を保っていることです。そして、そのような態度に向かい合うことによって、読者は、小説を書くという過酷な作業についてのまじまじとした肯定感や、或いは、もう終わったジャンルといわれることも多い、小説という形式自体に対する信頼を取り戻す、という言い方もできるかもしれません。

 その肯定感がどこからやってきているのか、と言えば、小説を開かれたものとして捉える姿勢にあるのではないかという気がします。より具体的には、小説というものが捉えようとしている対象は、メタフィクションのように小説に自閉していくものではなくて、もっと世界に存在する事物に向かっているのだ、という信念に、保坂の小説観は裏付けられていて、この信念があるからこそ、彼の小説に対する態度には、シニカルな翳りのようなものは感じられないし、もっと言えば、その小説を読むと、読者は、どんどんと開けていくような感覚や、言葉の届かないところまで(たとえ、それが実際に届かないとしても)、手を伸ばしてよいんだ、という解放感を持つことになるんじゃないか、とも思われます。

 この姿勢は、小説を小説の形式において考えて、小説の形式の不完全さにがっかりし続けて、ついには、「もう小説なんて、終わったジャンルなんだよ」と暴力的に言い放ってしまう人が増えてきた、この五十年くらいの流れから言えば、明らかに、新しいものであり、この新しさというものは、たとえ、馬鹿みたいな狂気を有しているものといえども、僕たちを小説に近づけてくれ、さらに言えば、小説を読んだり、そのことについて、考えたりすることを裏付けてくれるように僕には思われました。

 本当は、『小説の自由』を読みながら、もっといろんなことを考えて、付箋などもいっぱい張ってあるのですが、どうも、その考えたことをうまく書けないので、このあたりで止めておきます。