懐疑の果ての確信

小説の自由

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 こういうことを書くと、「この人、あたまがおかしくなっちゃったんじゃないか」と訝しげなまなざしで見られることになるので、正直隠しておきたかったのですが、一ヶ月ほど前から、イエス・キリストのことをつらつらと考えることがあって、その考えることの始まりは、復活前のイエス・キリストの行動というのは、ちょっと狂っている、という他愛もない思いつきから始まりました。
 基本的なところから言えば、イエス・キリストの復活というのは、彼が十字架で処刑されて、人類すべての贖罪をなす、ということを神が認めるということであり、ここにおいて、キリストの考えというか、その死は普遍性を帯びたものとして、人類すべてに関係づけられることになり、キリスト教が宗教として成立することになる。だから、キリスト教の信者によれば、クリスマスなんかよりも、復活祭のほうがよっぽど重要!ということになります。
 それで思ったのは、僕たちは、キリストが十字架に磔になって、その後、復活するということを知っているから、難なく、キリストのそれ以前の行為というものについて、「ああ、救世主が行うことっていうのは、奇跡になっちゃったりするのね」と、そういった具合に、新約聖書を読んだりもするわけですが(そうは言っても、そんなに読んでいませんが)、実際のところ、キリストがその行為をする時には、まだ、新約聖書どころか、磔になった後に、きちんと復活まで準備されているなんてことは、ありえなかったことで、要するに、ローマ皇帝がそのように判断したように、キリストがその行為をする時点では、キリストは、ただの困った人というか、ちょっと頭のおかしい人というか、狂信家というか、そういう風に捉えることも可能であったわけです。
 つまり、キリストが行為をする時、その行為が奇跡を生じるという保証はどこにもなかったのであり、さらに言えば、彼自身が救世主として、復活を遂げるという保証もどこにもなかったのだから、彼と同時代に生きる人から見れば、彼の行動というのは、狂った人のそれとして考えられても仕方がなかったんじゃないか、と、そういうことを思ったわけです。

 もちろん、僕は、ここで、いまさらながらに、キリストの悪口を書きたいとか、そういったガキっぽいことを目論んでいるわけではなくて、むしろ、そういった恐ろしいまでに狂った行為を成し遂げたということを踏まえると、ついつい、イエス・キリストが偉大だった、と言わざるを得ないんじゃないか、とそういった逆説的な結論を導こうとしているのです。
 イエス・キリストの狂気というのは、現代に置き換えて考えると(そんなことをするのもどうかとも思いますが、これはあくまでも比喩です)、非常にヴィヴィッドに伝わってくるところがあって、つまり、キリストは大工の息子なわけですから、今日的に言えば、鳶職の息子とも言えるわけで、その鳶職の息子で、中卒くらいの男がいきなり「僕は救世主です」などと呟きながら、どんどんと弟子を増やしていって、貧乏で生活保護も受けられないような人のところに行き、奇跡が本当に起きたかどうかは別にして、とにかく、その救いを求めている人に奇跡が起きたかような印象を与えて去っていく、というのは、どう考えても、尋常じゃない。
 しかも、挙句の果てには「死刑!」と言われて、手の甲に父親の仕事道具である釘などを刺されて、一人で支えることも不可能であるかのような木材、つまり、十字架を背負って、丘を登らされて、死刑に処せられるわけです。そんな中で、彼はずっと自分が復活を遂げて、救世主として人類の贖罪をするという、そういったことを信じていたわけですが、その信じ続ける作業のなかで、恐らく、幾重にも降り積もった懐疑というものがあったはずで、その懐疑の果てに、やはり、信じるということを捨て去らないで処刑されていく、というのは、恐ろしく、狂ったことであると同時に、その行為の中に、どこかしら、人を驚かせるところがあるわけです。
 この驚きをもって、僕は、イエス・キリストというのは、偉大だったのではないかという気がしてくるところがあります。