矢作俊彦「英国のテロとこの国」

 今日の朝日新聞の夕刊の文化欄に矢作俊彦の文章が載っています。
 新幹線に乗っていたら、鞄を置き去りにして、ドアから出ていった人物がいる。しばらく、様子を見ていたけれども、その人物は戻ってこない。矢作は、それが気になって、警備員や車掌に中を確認するように伝えるけれども、誰も取り合ってくれない。最後に、その鞄は同乗のおばさんのものだと分かる。おばさんは「いつもこうしている、人から文句を言われたことはない」と車掌に怒る。車掌は矢作をにらむ。
 こうした体験を下にして、矢作は、それをロンドンのテロと対比させて、この国の危機感のなさを主張するわけです。

 文体からすると、この文章はかなりあからさまに物事を語るものであって、また、矢作の主張も強く示されている。新聞の文化欄なのだから、ということもあるのだろうけれども、小説などで見られる矢作の物事の見方の裏返り方やその文体の微妙な色彩からすると、この文章の文体は味気がない。しかし、その味気のなさは、同時に、危機感のなさに対する矢作の危機感を感じさせるものではあります。
 もちろん、矢作の危機感はよく言われることであって、村上龍などは悪趣味なまでにそれを主張しているのだから、目新しい印象はない。この国の危機感のなさ、というか、他者に対する畏れのなさというのは、今にはじまったことではないし、また、それが主張されたのもこれが最初ではない。

 むしろ、この主張に新しさがあるとすれば、この国がいずれ戦時下と呼ばれるような状況に至ったときに、「市民生活の自由」と「安全のための規制」が激しく対立することになるだろうということを前提とした上で、仮に、このように、他者に対する畏れがない状況が続いたとすれば、国家という他者に対して、僕たちが充分に対抗することができないのではないか、という末尾の部分だろうと思われます。つまり、テロと呼ばれる暴力は、なにも僕たちの外部からやってくるものだけに限らなくて、僕たちの内部からもやってくる可能性があるという推測です。

 この推測はよく憶えていてよいものだろうと思われます。