憲法を巡って

 以上が控えめに言った場合の僕の意見だけれども、もうひとつ、憲法改正の議論について気にかかっているのは、「国民」の側の意識です。今回の『広告批評』の対談の中には、こんな一文が見られます。

憲法は、この国に住む人たち全部の宣言であると同時に、その機能の面で言うと、国と民の関係を定めた契約ですね。税金を払う、役人を選んで給料を払う、民は国にこれだけのことをする、だから、それによって国は何をするか、それ以上に国は何をしないかの契約。国家は強力ですからね。手足を縛っておかないと危ないことをしかねない、それが憲法というもののひとつの性格だと思うんですよ。保守の人たちが、今の憲法は国民の権利ばかりで義務が書いていないとよく言うけれど、実はそれは見当ちがいで、それが当たり前なんです。国の力が強すぎるから、それを抑えるために憲法があるわけですね。人を自由にして幸せにするために国のほうを制限するという民と国の関係をまず押さえた上で、じゃあ今度はどういう憲法にする?という話にならないと。

 池澤夏樹の発言。
 ここで言われていることは、憲法の基礎の基礎の事柄であって、例えば、フランスの人権宣言だとかのレヴェルでも、国家権力を制限するための規範としての憲法という図式はすでに確立されていて、その図式の出現を待って、近代的な憲法の体裁は整えられるということになるんだけれども、そういったことは、普通の人には、あんまり知られていない。
 大切なところなので、繰り返して述べると、イメージ的にいえば、普通の人が国家という怪物を何とかコントロールするための手綱としての機能を憲法は果たしていて、そのために、憲法改正の可否は、法律とは違って、国民の直接投票で決められることになっています。つまり、憲法改正をするということは、国民が国家権力にどれだけ私生活を乱されることを許容するかという問題です。
 その意味で、憲法改正の問題は、ものすごく僕たちの生活に関わりがあることだけれども、現時点では、今一度、その部分に対して、あまり敏感になっていない人が多すぎるんじゃないかという気がします。
 そういった状況下で、果たして、憲法改正をしてしまってよいのかどうか、というのが、僕の素朴な印象です。むろん、「掟の門」じゃないんだから、憲法改正を全面的に否定という立場は採りませんが、「国民」のレヴェルが今の段階では、憲法の改正は無理だし、あまりに危険だという印象があります。