憲法9条を巡って

 ここでも、何度か取り上げたと思うけれども、憲法の改正論議がすでに始まって久しいし、今までになく、それはリアルな問題として浮上しています。
 その核心部にあるのは、もちろん、憲法9条の改正であって、集団的自衛権の行使を可能とすることに焦点が当てられていることは間違いないように思います。
 集団的自衛権の行使を主張する人の論の中で、気にかかるのは、まず、集団的自衛権と個別的自衛権を(恐らく、意図的に)混ぜて論じているということ。「国を守る」=「集団的自衛権の行使」という図式を作り出そうとしているけれども、これは法的に言って、まったくおかしい話です。つまり、「国を守る」=「個別的自衛権」であって、仮に、「個別的自衛権の行使」が問題なのであれば、憲法9条を改正するまでもなく、国際法的に言って、その行使はすでに可能なはずです。
 その意味で、「国を守る」ためには、憲法9条で禁止されている集団的自衛権が必要で、そのためには、憲法9条を改正する必要がある、という論はまやかしであり、法律論として成立しない。だから、その論は詐欺的だと思います。
 もうひとつ気にかかるのは、「国を守る」という抽象的なレヴェルでは、恐らく、一致している改正論者ではあるものの、その具体的な内容となると、足並みが揃っておらず、憲法9条を改正したものの、その後の政策を巡っては、迷走してしまうんじゃないかということ。
 確かに、憲法改正論者は憲法を改正するという意見では一致しているとは言え、憲法9条が改正されて、この国が軍隊を持ち「独立した国家」となった時のイメージは、ばらばらです。
 現状を踏まえると、憲法9条が改正された場合、恐らく、政府は、日米安保の体制をより強固なものとし、アメリカとの関係において、集団的自衛権を行使するという方向に流れていくように思います。
 しかし、改正論者のうち、「アメリカに押し付けられた憲法」を「自主憲法」に置き換えることを主眼とする人たちにすれば、これは裏切りに他ならない。その*1プライドを逆なでにする恐れがあります。むしろ、こういった人たちには、今の憲法は、ある意味で、「対米追従」(という言い方が良いかどうかはさておき)のブレーキになっているとさえ言えるのに、あえて、憲法改正を言う意味はどこにあるのでしょうか、と質問したいところです。
 このことを踏まえると、具体的な政策において、コンセンサスがない現状下において、なぜ、急いで憲法9条を改正しなければならないのかが、感情レヴェルではどうにか理解できるとしても、論理のレヴェルでは全く分からない。
 むしろ、逆に、まず、国会ないし政府がきちんとした外交政策ないし戦略を持った上で、その戦略の達成のために、国民の同意を得て、憲法を改正するというのが筋であるはずです。難しいことはさておいて、まずは、憲法9条の改正をしようという議論は、逆さまの話であるように感じます。

*1:つまらない?