『かくしてバンドは鳴りやまず』

 「ノンフィクション」と呼ばれる領域でものを書こうとする者が死者を扱うとき、その者が歩む先には、アポリアが待ち受けているように思う。死者は、その書物を通じてしか語ることがなく、死者に言葉を投げかけたところで、その言葉はむなしく死者の世界の中に消滅していくだけに終わる。そのような意味でのアポリアだ。
 むろん、資料と資料をつなぎ合わせて、その生を再構築していく作業は可能だ。しかし、そうして出来上がったものは、もはや「ノンフィクション」と呼べない。なぜなら、「ノンフィクション」をあえて定義するとすれば、語るものと語られるものの相関関係において、語られるものが語るものを脅かす可能性なしにはありえないものであると考えるからだ。

 特に、『かくしてバンドは鳴りやまず』の書き手である井田において、そうした問題は致命的なまでに大きな問題を孕んでいたようにも思われる。
 『ルポ14歳 消える少女たち』、『同性愛者たち』を見れば明らかなように、井田の方法論というのは、語られる対象に自らの立ち位置が揺るがされ、もしかしたら、破壊されるかもしれないような危険な場所をあえて選びとることによって成立している。
 そうであるにも関わらず、『かくしてバンドは鳴りやまず』という書物は、死者の言葉を扱う。死者の言葉とは、つまり、トゥルーマンカポーティーの作品であり、また、ランディー・シルツのインタビューや作品であり、そうでなければ、『きけわだつみの声』である。そして、死者たちの声を扱うために、この作品の中で選ばれたのが、井田自身が死者の位置において語るという、アクロバティックな手法であった。例えば、こんな離れ業。

 カポーティのようなゲイはただ単に時代遅れというだけでなく、ニューヨークの社交界という特権階級にしがみつく、クロゼット*1より卑怯な軟弱者にすぎなかっただろうか。
 でも、それらならランディ。エイズが社会問題化するのに一番役に立ったロック・ハドソンはどう?彼は本当のクロゼットだった。そして、ハリウッドという砦に隠れて、死の瞬間までエイズで死んだことを認めなかったわよね。
 ハドソンは認めてカポーティを認めないなら、その理由はただひとつ。カポーティが不幸にもエイズで死ななかったからということにならないかしら。
 どう、ランディ。答えて?エイズで死ぬことは幸せなの?アルコール中毒で死ぬよりも。
 “まさか”
 私の中のシルツと、『私』は同時に言う。
 “幸せな死なんてあるもんか”
 でも不幸せな死というものもないわよね。
 “結局、どっちでもないのさ”

 井田は死者に言葉を投げかけ、そして、死者に成り代わって答える。あたかも、すでにエイズで死んでしまったランディ・シルツが黄泉の世界から言葉を発しているかのように、井田は死者の側から言葉を紡ぎだす。
 それにしても、この手法は「ノンフィクション」と呼ばれる領域においては、まず最初に禁忌されるべきものではないか。
 そこでは、言葉の日常的な意味合いでの「真実性」は担保されず、限りなく「フィクション」へと近接する。だから、ノンフィクションライターとして認知され評価されてきた井田において、この手法を選びとることは、ほとんど自殺行為とでも呼べるような危険なものである。ここで賭けられているのは、井田の語る主体としての地位そのものだ。
 では、なぜ、井田はこのような場所をあえて選びとったのか。それは、恐らく、井田がこの書物の中で扱う「本」が彼女にとって「切実なもの」であり、さらには、これから書かれようとする、この『本』を「切実なもの」とするためだったのではないか。彼女は言う。

 しかし、それらが実話ものと呼ばれようとノンフィクションと呼ばれようと、たとえ名前がなかろうと、それは『私』に寄生し、『私』が寄生する本であることに変りはなかった。
 この連載*2では、そういった本のいくつかについて、また、それを書いた人について書く。
 それは私にとって切実な本だ。
 そして、私以外の人にも、この『本』が切実なものになることがあるだろうか。私はいつも、それについて考えてきた。もし、これから先、誰と会うことも禁じられ、外界からも遮断されて行きつづけなければならないとき、その『本』はあなたや私に切実であること、言い換えれば、リアリティをもたらしてくれるだろうか。
 リアリティとは生きた証しであり、今も生きていると私たちに感じさせるなにものかだ。それさえあれば、私たちは孤独も破壊も狂気も恐れなくてすむ。だから、それは切実な『私』と相互寄生する切実な本なのである。そして、私や『私』や、その本の著者や欠かれた人が死んだあとも、一瞬にして、それらを蘇生させる力をもつ本。さらには次世紀に持っていく価値のある本だ。
 ともあれ、私はこの問いを文字にする作業に入る。すでに賭けは始まっている。
 では、賭けの会場へ。
 すえでに私は札を賭けた。

 今にして読むならば、何かを予感させてやまない文章ではある。
 それはともかくとしても、この文章において、井田がその語り手としての地位を危険に晒してもなお手に入れようとしたものが示されているように思う。すなわち、あえて、死者の場所に身をおき、死者に成り代わることにより、逆説的に、死者の言葉に「リアリティ」、そうでなければ、新たな生を与えることがここでは試されているのではないか。
 そのように考えるならば、井田の姿勢は、『温泉芸者一代記』、『同性愛者たち』から『小蓮の恋人』、『14歳』を経て、この『かくてバンドは鳴りやまず』に至るまで、何一つ変っていない。
 その姿勢とは、語られるものによって破滅させられるかもしれないような危険な場所にあえて身をおくことによって、語られるものを自分との関係において捉えなおし、語られるものに生命を与えるといった書き方である。その書き方のためには、どうしても、井田は死者の場所に身をおくほかなかった。

*1:自分がゲイであることを社会に隠す者

*2:『かくしてバンドは鳴りやまず』に記載される文章は『リトルモア』に連載された。