死者の言葉

 僕にとって、特権的な空間があるとすれば、それは図書館であり、また、美術館である。図書館には死者の声がこだまし、美術館には死者の想念が集う。そして、静寂が支配する空間において、僕たちは死者たちの影を追う。

 図書館はそういった場所なのだから、書物は墓標とでもいうべきものなのかもしれない。彼らは死に至り、そして、エクリチュールだけが残される。そして、僕たちは、墓標に刻まれた文字をなぞるようにして書物に目を落とす。
 その意味で、僕たちが書物を扱うときには、死は織り込み済みであることが多い。むしろ、死を前提として、死という制約を超えた場所にある「生」に出会うために、僕たちは書物を紐解くのではないか。

 しかしながら、時として、その書物に残される以上の「声」を求めることを誘うような書物もある。未完の作品である。それは、例えば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の第十巻であり、また、ミッシェル・フーコーの『性の歴史』第四巻及び第五巻である。
 「仮に、彼らが生きていたとすれば」というあり得ない夢想。それを抱かないというルールにも関わらず、そのルールを破って、あえてそんな夢想を抱き、無念さに打ち砕かれることを強いる、そうした残酷な書物もある。井田真木子の『かくしてバンドは鳴りやまず』もそんな書物のひとつだ。