「裁判」における正義

 あと、イエルサレムの「裁判」における「正義」のあり方にも、きちんと注目しておかなければならないとも思う。東京裁判もそうだけれども、こうした性格をもつ「裁判」において、それこそ、歴史修正主義者の馬鹿どもが、その正当性をあげつらって何かを言ったような顔をすることが多くて、この問題は微妙なものを孕んでいるけれども、ただ、思うのは、こういった限界事例での「裁判」も僕たちが一般に接する裁判に連なっていくはずで、逆に、このような事例においてこそ、「裁判」で実現される正義の、そうでなければ、法が実現する正義の、何らかの特性のようなものが現れるのではないか、という気がする。
 例えば、アイヒマンを裁判する際の法的な問題として、裁判管轄権(どこで裁判するか、誰が裁判するか、その権源はどこにあるのか)の問題が述べられているけれども、これは、要するに、「誰が裁くか」とか「なぜ、そのような権源があるのか」とか、非常に大きな問題に繋がる。つまり、この本で問われている事柄というのは、原理的なのだ。その意味で、この本はやはり古典だし、きちんと読んでおかなければならないと思う。