郵政民営化

 と、長々と書いてしまったので、もう止めにしようと思っていたところで、今日の日経に「郵政改革“本丸”はマクロ経済・「政治学」では解決しない」との論説を発見。基本的に、日経が経済のことばかりを考えるのは良いとして、やはり、この記事というか、日経の郵政改革に対する態度はどうかと思うものが多くて、その疑問に感じているところの集約化されたものがこの論説だったものだから、そのことについて、少しだけ書いておきます。
 論説の論旨としては、①郵政改革は「グローバル経済の激動のなかで、資金の流れを「官から民へ」どう変えて行くか」という点に焦点があり、政争の道具にすべきでないということ、②「郵貯簡保という国営金融に三百五十兆円もの資金が集まり、それが財政投融資国債消化に回されている」ことによって、資金が停留し、「日本経済の効率化が遠のく」ということ、③そのためには、財政投融資において、財投機関の改革が必要であること、④財務省がそのイニシアティブをとるべきこと、の三点がある。
 まず、③については、あまり異論がない。郵便局から財政投融資にお金が流れていて、それが最終的には、「非効率」な公共事業に流れている、という図式はたしかに存在していて、その意味で、財投機関はばさばさと整理すべきだと思う。
 しかし、それがなぜ郵政民営化に繋がるのかが分からない。まず、対処すべきなのは、財投機関であって、それがままならないから、郵貯簡保という大本から「兵糧攻めにする」というのは、あまりに迂遠であり、さらに言えば、それこそ「問題の先送り」なのではないだろうか。
 次に、①、②について。これは全く同意できない。というか、これはただの価値観の発露であって、なにも言ったことにならないのではないかという気がする。
 なぜ、国民の「資金」が市場に流れなければならないのか。ごく単純に、それで株価があがり、景気が良くなるだとか、その程度の認識しかないのであれば、それは、短絡であり、ごく単純に再度バブルを願っているとしか思えないような白痴ぶりである。まさか、日経とあろうものがそのような単細胞であるとは思えない。(ただ、一般的に言って、その程度の認識というか思考停止というかをわずらっている人間も散見されるのも事実)。
 では、なぜ、郵貯簡保の資金が市場に流れないとならないのか。それは、恐らく、「マクロ経済」に関わる問題なのだろう。ごく単純に言って、市場という「神の見えざる手」によって、機動的に資金が適切な場所に流れ、景気が回復するという新自由主義ユートピア。それが前提とされて、「資金が市場に流れるべき」という言明は成り立っているように思われる。だから、この論説は、新自由主義ユートピアを称揚するという価値観をただ示しただけのもののように思われる。
 しかし、その構図がそもそも受け入れられない場合はどうだろうか。本当に、資金の流れを市場に委ねることによって、景気が回復するのだろうか。そもそも、ケインズの考えでは、市場というのは不完全だからこそ、不況が存在するのではなかったか。だとすれば、市場の不完全性にどのように対処するのかという視点、つまり、「マクロ経済学」の視点が、そのタイトルにも関わらず、この論説からはすっぽりと抜けている。
 市場の不完全性に対処する際、財政投融資という手段は、やり方さえ間違えなければ、それなりの有効性を持つようにも思われる。つまり、市場が不完全であり、市場の補正とでもいうべきものが必要とされるならば、効果的に行われる財政投融資もひとつの手段となりうるはずだ。果たして、この論説はその可能性を吟味したのだろうか。
 さらに言えば、この論説は、市場に対して、政府の何らかの介入が必要とされるという立場をとっているように思われるが(④)、そうであるならば、財政投融資という形の介入とそれと異なる介入(財務省の介入?)と、程度の違い・やり方の違いこそあれ、考え方それ自体には違いがないのではないか。とすれば、原理的な意味で、この論説はどこに向けられたものなのか?
 最後に、こうした「郵貯簡保の資金の流れを市場へ」という発想に対して、素朴な違和感がある。言うまでもないことだけれど、国民がどこにお金を流すかというのは、国民が自分で決めるべきものである。国民にインセンティブを与えることはできても、それを制御することは、少なくとも、自由主義国家においてはできない。そして、現在において、国民のお金が郵貯簡保に集まっているという現実は、市場経済のリスクを犯したくないという国民の意識を示しているのではないか。とすれば、郵貯簡保を解体して、タンス預金に廻らないという保障はどこにあるのか。

 最後に、日経に対する根本的な疑問。日経の論調を総じて見ていると、国民もこれから市場経済に参加するリスクを負うべきだという主張が暗示されることが多いけれども、なぜ、リスクを負わないという選択肢が許されないのか。その部分に、根本的な疑問を感じてならない。果たして、年金生活者がリスクを負うことを本気で願っているなどということを想像するのだろうか。「グローバルな経済競争」の社会においても、リスクを負わないでいることを政策的に許す制度というのは、果たして、許されないのだろうか。

 素人考えで悪いけど、書かせてもらいました。