行政機構の「陳腐さ」

 その考えるきっかけの中で、個人的に特に関心があるのは、ひとつは行政機構の危険性、つまり、「陳腐な悪」が表象不能な悪にまで昇華される(といって良いのかどうかは分からないけれど)までの過程であり、本来ならば、『全体主義の起源』にあたるべきなのかもしれないが、この書物の中でも、その端緒となるようなヒントは与えられているようにも思う。
 もうひとつ言えば、ナチスを語る際、強調されることは少ないけれども、ナチスがあくまで行政機構であり、その行政機構が暴走する事態をきちんと把握しておきたいというところもある。どうしても、「ナチス」と言われると、それを「あちら側」において判断してしまう向きもあるけれども、「ナチス」と私たちのあいだはやはり地続きだという感じがあって、その地続きを断絶させるために、それこそ、憲法や「法の支配」といったものが制度化されているというのが正しい。とすれば、仮に、現在の行政機構の中で「ナチス」的な何かしらがうごめく瞬間はあるはずで、もしかしたら、それを僕たちは見落としているかもしれない。その瞬間を捉えるためにも、アイヒマンのケースはきちんと見ておかないとならないように思う。