闘争領域と欲望

 そんな風に考えると、ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』は、疎外に対する警告であるかのようにも映る。語り手は、幾度となく、労働や苦痛がそれに見合った結果をもたらしてくれないことに注意せよ、注意せよ、と警告を発する。歯車と歯車がきちんとかみ合っていたとしても、結果としてもたらされるものは、たいていの場合、無残なものでしかないと言い募る。そういった意味では、誠実な小説だと思う。
 でも、同時に、そんなの当たり前じゃないか、という風にも思うところもある。すなわち、私たちが欲しいものを手に入れることができない、というのは、人間の条件的な意味合いで当たり前なのではないか、という気がする。対象αではないけれど、欲望にきっちりと重なり合う対象がこの世界に存在しないというのは、ここまで言い募るほどのことではないのではないか、という考え方もありうるわけだ。
 事実、この小説のなかでは、語り手の失望を誘うのは、労働だけではない。彼は、恋愛ないしセックスにも失望している。この小説において、恋愛ないしセックスは、労働と同列に扱われるべきものだ。

やはり、と僕は思った。やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化のシステムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化にとんだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。

 この小説が疎外をめぐる物語であるとするのであれば、その疎外とは、労働を巡るものであると同時に、セックスないし恋愛を巡るものでもある。そして、この物語が労働と恋愛ないしセックスというふたつの欲望とそこからの疎外を扱っていると考えるならば、そこにあるのは、もはや、精神分析の理論に見られる構図にほとんどかわるところがないものとなってしまう。いじわるな見方をすれば、この小説のいう「闘争領域」とは、人間の欲望そのものの領域ということになってしまう。労働における疎外とは、結局、欲望に対して、或いは、無意識に対して、私たちが疎外されていることの一例にほかならない。「なにも、そんなことを言い募る必要はない。分かりきったことだ。」と首をすくめてみることさえできそうだ。