我々のささやかな疎外

 子ども頃には、いや、大学を卒業するあたりまでは、仕事をする、というのは、ごく単純に仕事をするということだろうと考えていた。仕事が苦痛で退屈なものであるとしても、それは、仕事から派生するものであって、仕事とは無関係なものではないという風に楽観的に考えていた。だから、たとえ、どんな労苦があるにせよ、仕事は仕事であり、それがうまくいった暁には、そういった労苦も昇華されるのだろうし、それはそれで報われるのだろう、と安易なことを考えていたように思う。
 しかし、実のところ、仕事に関わる労苦の大半は、仕事とは関係ない話であって、ほとんどのところ、その労苦を乗り越えたところで、仕事が上首尾に進むということもない。例えば、チンパンジーの上司が痙攣の彼に対してとる態度に私が苛立ちを抱えているとしても、それは本筋の仕事とはまったく関係ない。「いや、それは、組織を上手にマネージメントしていくことであって・・・」云々とそれっぽい話を述べる人もいるかもしれないが、そんな人とは口もききたくない。というか、そんなのはポイントを外しすぎていて、お話にならない。
 ここでの問題は、組織だとかマネージメントだとか、ウィンウィンの関係だとか、そういった下らない話ではなく、労働や苦痛とその結果の関係性だ。事実として述べるならば、人が投下した労働や苦痛に対して、結果として現れくるものは、原理的に、その労働や苦痛が目的としていたものとは異なったものとなる。そういった話だ。
 むろん、その結果として現れてくるものが思いもよらない好ましいものとなる場合もあるだろう。だいたいのところ、仕事でうまくいって、自分に満足している人というのは、そういったものを基準として、ものを語ってみせるから、「出会いを大切にしよう」と明るくインタビューに答えてみせたりもするのだけれど、最大限努力して多く見積もっても、そんなの半分くらいしか本当のところを言っていない。だから、成功した人には、もっと誠実であって欲しいと思う。もう半分を付け加えるべきなのだ。「しかし、出会いは、時として、いや、たいていの場合、無残な結果をもたらすこともある。注意せよ。注意せよ。」と。
 そして、私たちは、無残な結果がもたらされた状況を疎外と呼ぶのではないだろうか。