デッドエンドを超えて

 恐らく、こういった具合に考えるのが一番つじつまがあうと思うのだけれども、アトムスーツというファンタスムの外殻は、チェルノブイリの人々によって、裂け目を入れられた。そして、「太陽の塔、乗っ取り計画」によって、ヤノベは、その裂け目を切り開いて、ファンタスムを打ち破った。ヤノベはファンタスムから脱出した。こういったストーリーがさしあたっての結論になる。
 でも、最後にひとつだけ見ておきたいことがある。ファンタスムから逃れた今のヤノベの目の前には、どのような風景が広がっているのだろうか。
 2004年10月、ヤノベは、金沢21世紀美術館で「子供都市計画」を開始する(それにしても、なんで、ヤノベはこんなに「計画」という言葉を多様するんだろう?まるで、それは「夏休みの計画」のようでもある。)。そして、この計画は「子供都市―虹の要塞―」という企画展示に繋がっていく。このプロジェクトでは、「市役所職員や看護士、家族などの多くの金沢市民、若いアーティストや美大生」など「大人も子供も含め約300名」が関わって、様々なパビリオン郡が作られていったという。そして、最後には、「子供都市鉄道」、「子供都市放送局」、「子供デスコ」など次々と増殖していくパビリオン郡は、美術館の周りを包囲することになる。
 ここで、その軌跡を思い返すと、ヤノベの作品群はあくまでも個人的なものとして構築されていったものだった。もちろん、どんな作品にもカスタマーは必要だから、それらの展示はされる。でも、ヤノベの創作とは、あくまでもそのファンタスムに形を与える作業であって、アトムスーツの外殻のように、それを見るものからは一定の距離を保っていて、ヤノベの「妄想」という世界に内向していくものであった。それは、閉鎖された系をもっていて、恐らく、その閉鎖の臨界におくべきなのがチェルノブイリの3歳の子供との写真だった。あのような場所においてもなお、ヤノベは、自分をアトムスーツの内側において、3歳児を遠ざけてしまっている。
 それに対して、「子供都市計画」は、驚くほどに開かれている。ヤノベはもうアトムスーツの内側に立ち止まろうとはしない。彼は、自分のファンタスムの外に出ていって、実際に手を汚して砂遊びをするかのようでもある。実際、ヤノベは、この展覧会の過程において自分の製作現場を開放している。チェルノブイリのあの3歳の子どもと砂遊びをするかのように、ヤノベは、この展覧会では、自分の作品を創作していく。
 もちろん、だから、ヤノベのこの試みは「開かれた美術館」という大きなテーマと関係していて、ファンタスムの外にでた彼のまなざしのもとには、21世紀の新しい美術のあり方のひとつが示唆されている、なんて言ってみても良いんだろうけれど、僕たちは、今のヤノベをもうちょっと僕たちに近づけて見てみたいようにも思う。
 僕たちが今まで(長々と?ごめん)やってきたように、ここでも、ヤノベの作品に郊外生活者のファンタスムという補助線を入れてみる。すると、僕たちは、今のヤノベの姿のなかに、僕たちに向けられた、静かな変容を促すようなメッセージを読み取ることもできるんじゃないかと思う。
 もちろん、それは、あの鬱陶しい共同体を再生しようなんて、そんな大げさで、空虚なものではない。そうではなくて、もっと、ささやかなメッセージだ。つまり、子供と遊んでいる時のように、もうちょっと自分を開いてみるのはどうだろうかと、ヤノベはそんなメッセージを静かに伝えているように感じる。
 実際のところ、僕たちは、あまりに個人に拘泥して生きてきた。言うまでもなく、僕たちが個人として考えて生きていくことは大切なことだし、僕たちは自由が大好きだ。それでも、あまりにそれに拘りすぎてしまって、どうにも不自然なところまで、僕たちと世界を切り離しすぎてしまったんじゃないだろうか。
 ヤノベがアトムスーツに身を隠したように、自分なりのファンタスムの内側にとどまって生活していくのは、とても心地が良いことだった。でも、そういった心地よさは、時として、僕たちをあまりに人から遠ざけてしまうこともある。僕たちも、もうそろそろ扉を開いて、自分のファンタスムとは非対称な世界に足を踏み入れても良いんじゃないだろうか。
 そう、僕たちのファンタスムを充実させていくことだけに夢中になるんじゃなくて、ほかの人と一緒に自分の世界をつくっていくことを考えるべき時がやってきたのではないだろうか。僕たちのファンタスムをほかの人のファンタスムと触れさせて、時として、僕たちの世界が大揺れに揺れてしまったとしても、それはそれで、もっと面白いことが起こることもありうる。とすれば、ヤノベが子供たちと一緒に遊ぶのと同じように、僕たちは僕たちを開いて、外に出ていく時がきているのかもしれない。もしかしたら、今、僕たちの扉の外には、僕たちと一緒に遊ぼうと待っている人がいるかもしれない。余計なことだけれど、そんなことも思う。
 いずれにせよ、今回の「キンダガルテン」の展示では、アトムスーツは、ヤノベのそれまでと異なる意味合いを与えられている。確かに、この黄色いスーツはひとつのモチーフとして多用されている。腹話術人形の「トらやん」の多くには、アトムスーツが着させられている。でも、ここではもう、アトムスーツはヤノベを守るべきものではない。それは、小さな「トらやん」が遊ぶためのお遊戯の衣装のようにも見える。そうでなければ、「トらやん」を喜ばせるためのプレゼントのようでもある。
 アトムスーツだけじゃない。「キンダガルテン」の展示には、それまでのヤノベにおいて、あれほど反復されていた、自分を包み込んで自分を守るための装置は見あたらない。その代わりに僕たちが目にするのは、恐らく、チェルノブイリで果たされるべきだったかもしれない夢だ。その空間で、ヤノベはアトムスーツを脱ぎ捨てて、あの3歳の子と一緒に砂遊びをしているかのようだ。
 そして、実際、「キンダガルテン」では、チェルノブイリの夢は果たされているようにも思う。あの死の匂いに満ちた保育室の記憶を反転させるかのように、そこに溢れているのは、子供たちの奇声やわけの分からない叫び声である(いや、本当にうるさかったです)。子供たちは、呆然と「ジャイアント・トらやん」を見上げる。子供たちは、「トらやん」の踊るかのような配置に促されて、あの鉄の塊でできたマンモスの廻りをぐるぐると歩き廻る。子供たちは、アトムスーツ姿の「トらやん」を蹴っ飛ばして、学芸員をびっくりさせる。「キンダガルテン」には、そんな空間が拡がっている。チェルノブイリを越えて、もうひとつの未来が再生する。子供たちが甦る。
 恐らく、「キンダガルテン」は、今のヤノベの目の前に拡がっている風景の一端を垣間見せてくれるのだろうと思う。つまり、チェルノブイリのデッドエンドの代わりの、新しい世界。廃墟ではなくて、もうひとつのベクトルを描いた未来。ヤノベの前には、そんな風景が拡がっている。
 そして、もしかしたら、そこで描かれる未来には、1万年後に永久凍土の中から発見された鋼鉄製のマンモスを見て、目を丸くする子供の顔があるかもしれない。もしかしたら、勝手に馬鹿げたダンスを始めて、子供たちの明るい笑いを誘うような「トらやん」がいるかもしれない。そして、その時、「トらやん」は、今のヤノベと同じように、アトムスーツを脱いでいるかもしれない。だって、その時、僕たちはもう何からも身を守る必要はないのだから。

(おわり)