もうひとつの出口

 ヤノベによれば、その創作の(ファンタスムの)原点となったのは、大阪万博の解体現場であったという。ヤノベ少年の目には、様々なパビリオンが解体されていく光景が「未来の廃墟」を思わせたという。そういった経緯もあったためか、ヤノベは、ファンタスムの原点に回帰するかのように、アトムスーツプロジェクトの一環として、万博跡地(つまり、万博記念公園)を訪問したり、また、大阪万博時に建造された万国博美術館を引き継ぎ、2004年に解体されることになった国立国際美術館の最後のエクスポジション「MEGALOMANIA」を開催したり、エキスポタワーの解体に際して、「TOWER OF LIFE」というインスタレーションを作成したりする。
 僕たちにはもう明らかなように、ヤノベの万博跡地への拘泥は、郊外生活者のファンタスムに由来するものとしても考えることができる。つまり、その解体現場は、大阪の郊外である吹田市の未来をも意味するものとして捉えることができる。1970年代に建築された団地は、今、その役割を終えて解体されている。それを見越すかのように、万博のパビリオンも解体されていった。大阪万博は、都市の欲望が肥大化するに従って、拡大していった郊外を表象し、その跡地は、いつしか忘れ去られ解体されてしまう郊外の成れの果ての姿を指さしている。
 そのように大阪万博跡地を見るのであれば、万博記念公園はきわめて興味深い場所となる。芝生や木々に囲まれた公園は、郊外の未来のその先を示しているとも考えられる。もちろん、僕たちにしてみれば、それはただの公園なのだけれども、でも、ヤノベが太陽の塔のなかに入って、出口がことごとくコンクリートによって固められてしまっていることを確認して、未来の出口が失われてしまっていたと哀しげに語るとき、この作家において、万博記念公園は、ただの公園などではなくて、自分のファンタスムを仮託する対象とされている。太陽の塔から出口が失われてしまったということは、9・11のテロの時代にあって、郊外生活者の未来を暗示している。デッドエンドとしての僕たちの未来。
 その時、問題となるのは、身体を裂け目なく覆い隠して、自分を守ることなどではなくて、自分のファンタスムの裂け目を探し出して、なんとか脱出口を探すことである。「太陽の塔、乗っ取り計画」はこうした文脈で解釈されるべきなのだろう。
 「太陽の塔、乗っ取り計画」については、最初のところで触れておいた。アトムスーツを着用したヤノベが太陽の塔の目玉のところに這い上がって、それを写真に収めるという、冗談みたいなプロジェクトだ。その概要を聞いただけならば、僕たちは「ああ、現代美術の作家っていうのは、やっぱり、わけわかんないね」と苦笑いして終わりにしてしまうことだろう。
 でも、そうじゃない。照れ笑いをしながら、「太陽の塔、乗っ取り計画」のことを語ってみせるヤノベの眼鏡の奥には、今述べたように、自分のファンタスムの裂け目を探り当てて、その外殻から外へと逃れ出ようという、それなりにシリアスな表情をしたまなざしがある。
 だいたいにおいて、ヤノベがまじめでなかったというのであれば、その計画がただの悪ふざけにすぎなかったというのであれば、ヤノベは大阪万博開催の時に起こった「目玉男」の事件にあれほど拘泥しただろうか。ヤノベは、当時の新聞でさえ、色物の扱いしかせずに、高度成長期の歴史の渦のなかに消えていった「目玉男」の居所をさまざまな資料にあたって、なんとか探し当てる。「目玉男」は、北海道の片田舎で生活をしていた。ヤノベは、直接そこに出向いていき、インタビューを行う。
 大阪万博の開催時、ノンセクトラジカル(ははは)として札幌道庁の道旗と日の丸を引き摺り下ろして、指名手配されていた男(元北海道庁職員!現下着販売店の店長!)が万博にやってくる。彼は、大阪万博はまったくのところ茶番劇にすぎないし、体制に象徴的に対抗するには、万博のシンボルである太陽の塔を乗っ取るのが「より効果的な反権力意思の直接行動である!」と考える。そして、太陽の塔に登って、太陽の塔の目玉に居座る。新聞には、人騒がせな「目玉男」とあくまでも色物として扱われる。
 まあ、困った人である。僕たちは、こういった行動があまり功を奏しないことを知っている。その行動が世界を変容させるということについても懐疑的だ。劣化ウラン弾の悲劇を伝えるために戦時下のイラクに侵入した人がいたけれども、やっぱり、それはあんまり効果がなかった。そういった行動をしてしまう人が好きか嫌いかと言われれば、なんかロックな感じもあるので、たぶん、好きなのだろうけれど、でも、クールに現実に目をやると、費用対効果も気にかかる。そのような無茶をするために支払わなければならないコストに対して、結果としてやってくる効果はあまりに小さすぎる。残念ながら。
 こうした冷静な判断というのもあるにはある。でも、ヤノベのインタビューのシリアスさも無視できない。もちろん、「目玉男」の言葉はそんなに整理されたものではない。例えば、9・11のテロを語りながら、「あのテロを行った人たちは、立派だったと思うよ、うん」という暴言もある。それとともに、「あれ、飛行機で突っ込んだ人、19人だったでしょ。計画では、20人だったと思うのね。でも、1人、抜けちゃった。それもまた人間だよね」と達観しきった(というか、妙に核心をついた)言葉もある。DVDでは、編集されてはいるものの、それでも、その言葉はあちらこちらに飛んでしまい、ヤノベのファンタスムの出口を「ここにあるよ」と簡単に指さすことはない。ちぐはぐだ。
 でも、「目玉男」の言葉のちぐはぐさの中に、僕たちがざらりとしたリアルな感触を覚えるのも事実だ。彼の言葉は、写真のなかのチェルノブイリの人々の姿と同じように、それなりの重さをもって迫ってくる。
 仮に、「目玉男」がなんの誠実さ(たとえ、読み違えによるものであっても)を持ち合わせずに、ベトナムで起こっている悲劇を自らと切り離すことをできた人間であったら、どうだったであろうか、と僕たちは考える。ただ、実直に官庁に勤め上げて、膨大な書類に目を通して印鑑を押し続けなければならないのは確かであるとはいえ、平穏でそれなりにステータスのある生活を送れたのではないだろうか(それはそれで悪いことではない、もちろん)。今頃、退職金をもらって、夫婦で温泉にでも行って、「まあ、いろいろ大変だったけど、それなりに良い人生だったと思うよ」と泡の消えかけたビールの入ったグラスを傾けながら語っていたのではないだろうか(それはそれで、それなりにおぞましい図ではある)。でも、「目玉男」は、そういった生活を選ばなかった。そして、今、屈託の多そうな下着店の店主をやっている。それが意味するところは、それなりに重い。
 正直にいうと、浮き足立った生活を送っている僕たちは、その重さにたじろいでしまう。太陽の塔の不法占拠という愚行は、「目玉男」の生涯を賭けた作品のようなものなのだ。だとすれば、その時、彼はなにを賭けていたのだろうか。なにを夢見ていたのだろうか。もちろん、繰り返しになってしまうけれども、太陽の塔を占拠したところで、世界の何かが変わるということはない。新聞の三面記事を賑わして終わりになるのがせいぜいのところだ(もしかしたら、小学生がそれを見て、しばらくのあいだ、「目玉男」ごっこが流行するかもしれない)。
 でも、やっぱりそれだけじゃない。見るべきなのは、たぶん、「目玉男」が果たそうとして、果たせなかった夢である。その有効性はともかく、その馬鹿馬鹿しさはともかく、その背景には、ベトナム戦争日米安保体制を含めた冷戦体制や核の憂鬱や、そうでなければ、第二次大戦の記憶や、そういったものが一緒くたになった危機がある(おおよそ混濁しているけれども、「目玉男」と同世代の僕たちの両親を見ていると、恐らく、当時の状況というのは、そういった混濁した思考を生み出していたのではないかと思われる)。そして、その危機に対抗して、そこから抜け出すためには、「目玉男」は、その未来を賭けて、なにかをしなければならなかった。ここで、太陽の塔の占拠が持ち上がる。それは、危機から抜け出すために、「目玉男」が自分の生涯をかけて行ったひとつの具体的な試みである。
 そのように考えると、「目玉男」の愚行は、それなりの意味を帯びてくる。言うまでもないことだけれども、危機を前にして、あたまをあんまり使わないで行動する、というのが重要なのではない。行動だけすればよいというものじゃない。
 でも、同時に、その行為は、デッドエンドを前にして、それからなんとか逃れ出ようという切実な行為でもある。つまり、太陽の塔の不法占拠は、オルタナティブな未来を見つけ出そうという行為であり、平面的で一義的で限定された可能性しかない未来の表面に傷を入れ裂け目を作り出し、そうであるかもしれない未来のなかに身を乗り出そうという試みである。このように理解するとき、その馬鹿馬鹿しさも含めて、ヤノベが「目玉男」の行為を反復する意味は、ほとんど明らかなんじゃないだろうか。
 すでに述べたことだけれども、太陽の塔は、その出口をコンクリートで塞がれてしまっていた。ヤノベにおいて、それは、未来の(そう、ヤノベのファンタスムの)出口がすべて失われているということを暗示している。とすれば、ヤノベが象徴的にそれを乗り越えて、脱出口を探し当てるためには、僕たちの言葉で言うならば、アトムスーツの裂け目を切り開いて外部へと出ていくためには、何らかのかたちで、太陽の塔の出口を見つけ出さなければならない。ヤノベには、そういった要請があった。
 その時、「目玉男」が現れる。ヤノベにおいて、「目玉男」は、デッドエンドの、塞がれた出口を逃れて、オルタナティブな出口を探し当てたパイオニアとして位置づけられることになる。「目玉男」は、ただの目立ちたがり屋の色物ではなくて、もしかしたら、ありえるかもしれない未来のもうひとつの出口を見つけだしたヤノベの先駆者なのだ。こうように、「目玉男」をシリアスに扱うことは、ヤノベの思考のシステムには、どうしても求められることであった。
 こうして、ヤノベは、太陽の塔に登ることになる。悪戦苦闘の末、そうでなければ、どうにも冴えない臆病な旅程(「警備員のおっちゃん、見てないやろうか?」)の末、ヤノベは目玉の部分へとたどり着いて、写真を撮る。それを終えると、ヤノベは、アトムスーツを脱いで、「ああ、ええ景色や」と呟く。未来の脱出口で、ヤノベの目にはなにが映ったのだろうか。