豊田市美術館の午後

 谷口吉生の設計した美しい建築物、豊田市美術館に入ると、まず、僕たちは、柔らかで明るい光のなかで、ジョセフ・コスースの「分類学(応用)No.3」と名づけられた壁面を目にすることになる。数々の哲学者や思想家の名前が記された巨大な壁面を見上げて、瞬時、僕たちは図書館にいるときのような錯覚をおぼえる。そう、僕たちは、図書館で、名前と名前、言葉と言葉を繋いでいき、文化の仮象の総体とでもいうべき構築物を垣間見ようと努力したことがあった。そして、この作品を眼にした時、僕たちはそういった作業のことを思い出す。
 それと同時に、見上げた視野のなかに、ジョニー・ホルツァーの「豊田市美術館のためのインスタレーション」と名づけられた電光掲示板が飛び込んでくる。電光掲示板には、短文の言葉が流れていく。「男と女は異なる」、「世界は暴力に満ちている」云々(正確なところは、これと異なるかもしれない)。電光掲示板という媒体が使われているおかげで、僕たちは、都市のなかで散乱し拡散していくメッセージたちのことを思い出す。それらのメッセージは、僕たちの眼に映るけれども、結局のところ、僕たちはその意味を取り違えているかもしれない。いや、そもそも、僕たちはその言葉を眼にしているけれども、その言葉の意味を考えることさえないかもしれない。行方不明となった言葉たち。そんなことを思う。
 とすれば、ホルツァーの作品では、コスースの壁面に書かれた言葉ないし名前とは、まったく異なった位相において、言葉が扱われているということになる。いっぽうでは、蓄積され継承されるものとしての言葉。他方では、散乱して、いつしか消失していくものとしての言葉。
 いずれにせよ、こんな具合に、豊田市美術館に入るとすぐに、僕たちは二つの対照的な作品に出会うことになる。とはいえ、この二つの常設展示は、ひとつの同一の響きを共有しているようにも思う。そんなに難しいことじゃない。つまり、それらはハイアート然としている。気取っているといってもよい。分かる人にだけ分かればよいという態度も感じられなくもない(それが悪いというわけではない。制度には制度を成立させるだけの強度が必要なのだ。)。
 そして、そうしたリズムに身をあわせて(だって、最初に眼にする作品だから)、僕たちは白い階段を登っていく。その時、当然ながら、僕たちは、ホルツァーやコスースの作品と同じように気取った、なにやら難しげな作品に出会うことを予想し、これまで溜め込んできた知識(冬眠前のクマのように?)を使えば、恐らく、それを解読することもそんなに難しいことじゃないんだろうな、と楽天的に構えている。軽い足取りで階段を登って、僕たちは企画展の入口へと導かれていく。ヤノベケンジの「キンダガルテン」と記されている。