働くことの効用

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

 何でも、生きるために必要なのは三つあって、その三つというのは、愛すること、働くこと、教えることであると、フロイトが述べているらしいです(未確認なので、出典は示せません)。

 僕は、あんまり働くことは好きじゃないけれども、ただ、実際、働いていない時期のことを思い出すと、働かないことによって生じてしまう「煮詰まり感」というのは、実体験として、かなり理解できる。この「煮詰まり感」が高じていくと、たぶん、精神的にちょっとおかしくなっていくんだろうな、というところも含めて理解できるわけです(もちろん、それを解消する方法というのは、いくらでもあるんだけれども)。

 この短編小説集の技巧的に優れているところだとか、或いは、代替不可能な世界(それはゲール語で語られる)に侵入してくる代替可能な世界(それは英語で語られる)に対する不信といったテーマ郡というのは、正直、今の僕にとってはどうでもよい話なので(たぶん、小説として解釈をしたいのであれば、そこらへんも詰めないといけないんだろうけれども)、あんまり語ろうとは思わない。

 むしろ、土を耕し、漁に出ないと生きていけない、というシビアな世界のあり方に、(消費社会にどっぷり浸かった)僕は新鮮さを感じていて、毎日のように、牛を牧草地に連れていったり、漁に出かけていって、ロブスターを捕まえたり、或いは、成長した木々を切り倒して、新しい苗木を植えるといった、途方もなく反復される労働というものは、人の精神を解放する部分も多分にあるのではないか、とそういったことを思いました。
 つまり、労働の反復によって、人は煮詰まっていくのではなくて、ひとつひとつの労働を線的において、それぞれを次の段階のステップとしなければならないというような強迫観念が、人の精神を疲弊させるのではないかという仮説です。

 そのように考えると、フロイトが述べているとされる「働くこと」というのは、ある意味で、精神を病まないで生活をするために、結構、重要なファクターとなるんじゃないかとそんなことを思います。つまり、反復して、詰まらなくて、自分で意味を見出せないことを延々と反復するのは、健全な精神を保って生活していくためには、それなりの効果はあるんじゃないかと、そんなことを考えたわけです。

 もちろん、この小説に描かれている世界というのは、今日においては、神話的なものとさえいえるものであって(それは、中上健次の『千年の愉楽』を思い出させるところもある)、それを反動的に懐かしむとか、そういったわけではなくて、ただ、反復される労働と、人の精神活動の相関関係みたいなものについて、ちょっと思っただけなんですけど。

 まあ、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』じゃないけれども、とりあえず、働きましょう。意味が分かんなくても、虚しくても、それはそれでそれなりの効果があるようです。