むずかしい結婚

 個々の作品とは別に、この短編集を読んで面白く思ったのは、その配列の仕方でした。
 この作品集の中に収められている小説は、もちろん、個別の作品集の中でも読んでいて、すべてが再読ということになるけれども、それでも、こうやって並べ替えて読むように促されてみると、その個々の作品が持っている新しいフェイズというか顔というか、そういったものが見えてくるのは、興味深い経験でした。

 例えば、この作品集の並びは「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「パン屋再襲撃」、「カンガルー通信」、「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(長いな)、「眠り」、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーポーランド侵入・そして強風世界」(長いな)、「レーダーホーゼン」・・・といった感じになります。
 そして、最初の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」には、その後の短編の読みを規定してしまうような強さがあって、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」と「パン屋再襲撃」と「眠り」と「レーダーホーゼン」を繋ぎ合せると、結婚した男と女のあいだに横たわる深淵といったモチーフが浮かびあがってきます。
 今までの読んだ感じから言うと、村上春樹の小説の中で、結婚というモチーフは、それほど前景化されるという印象はなかったのですが、このように読んでみると、確かに、その作品の中には、結婚して一緒に生活している人がもっている世界、もっと言えば、本来ならば、たとえ、結婚し一緒に生活しているからといっても、そこに立ち入ることは許されない世界を垣間見てしまった際に生じる風景の歪み、とでも言えばよいようなものを扱っていることに気づき、こういうのは、新鮮でした。

 もっとも、村上春樹の作品郡を読んでいると、この世界の裏側には、僕たちが全く知らないような闇の世界が隠されていて、そのあちら側の世界を垣間見てしまうと、場合によっては、こちら側の世界に戻ってこれなくなるかもしれない、といった感じの事柄が繰り返し述べられています。そういったところから言うと、結婚における日常生活を通じて、この作者があちら側の世界を描いているということも言えるかもしれない。

 でも、ひとつ注意したいのは、この短編集の配列によって、まず、あちら側の世界というモチーフが結婚という馴染みある日常生活を通じて読者に提示された上で、次に、それがもっと普遍化されていって、ついには、最後におかれた「象の消滅」によって、どのような形をとっても、あちら側の世界が僕たちの世界を侵食しうるんだよ、といったような印象が読者に与えられることになるということです。こうすることで、読者は、あんまり敷居の高くないところから、あちら側の世界に触れることになり、そして、最後には、村上春樹の作品郡に繰り返し現れるモチーフが何であるかを容易に理解するようになるとも考えられます。
 そういった意味で、この短編集は、村上春樹の作品群を読むうえで、非常に優れた導きの糸として機能しうるとも言えるわけで、アメリカの編集者というのは、なかなかやるもんだなという感じもありました。*1

 いずれにせよ、この短編集は、村上春樹という作家を考える上でも、なかなかによくできたものだと思いましたし、他方で、これほど優れた短編集というのも、なかなかなかったような印象もありました。しかも、地味な装丁もよろしい。
 そういたわけで、もし、僕にかわいい十三歳の姪などがいて、しかも、ちょっと小説なんかにも興味があるようなことを言ってくれたりもしたら、ちくま文庫の『カポーティー短編集』とともに、この短編集などをプレゼントしたいな、などという夢想をしてしまいました。実際のところ、姪などはいないので、まったく無意味な夢想なのですが。

*1:ただ、言ってしまうと、アン・ビーティなんかは、この人たちは神経症かと思うくらいの、ヒリヒリするような男女関係というか、結婚の風景なんかをその作品のなかで扱ったりもしているわけで、今回、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」だとか「パン屋再襲撃」だとかそういった短編を再読していると、意外なことにアン・ビーティの小説を思い出すところもあって、そういったところから考えると、まず、結婚による風景の歪み、そして、次第に村上春樹にオリジナルなモチーフっていう流れにしたほうが、現代アメリカの短編小説の読者には入りやすいというのもあるのかもしれないという感じもありましたが。