新しいかたちのポルノグラフティー

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

 読みました。評判どおり、文字が多かった。読み終わったのが、午前三時すぎ。その後に、あまりに疲れたので、再読中の『存在の耐えられない軽さ』(いい小説だ)をちょっと読んで、眠ったのが、午前四時すぎ。かなり疲れました。

 昔、十八世紀フランスの革命直前のポルノグラフティーのことをちょっと調べていたことがあって、よく言われることだけれども、十八世紀フランスのポルノグラフティーの中には、ひとつには、言うなれば、政治的無意識のようなものが漂っていて、特に、質の悪いポルノグラフティーになればなるほど、政治性が強くなってきます。マリー・アントワネットのポルノグラフィーなんかは、そういった良い例で、これについては、アン・ハントだったっけ、そういった歴史家が細かく読み解いています。
 ただ、それだけじゃなくて、そこには、もうひとつ重要なものが見出せて、それは何かと言うと、唯物論的なまなざしのようなものということになります。
 例えば、サドなんかは、過去の判例に反して、猥褻な要素というよりも(そういうのもあるにはあるけれど)、むしろ、人間の肉体に対する冷徹なまなざしのごときものを感じることが多くて、そのモナド的な存在である肉体が、それが配置された関係性によって、どのように解体されていくか、といったようなものがテーマとなっているようにも思われます。

 そういったことの大家は、世間的に言うと、やっぱりサドっていうことになるのでしょうが、個人的に言うと、こういった関係性の無限反射によって、解体されていく個人というものをもっとも上手に描けているように思われるのは、ラクロの『危険な関係』です。しかも、この小説は、恐ろしいほど完成度が高い。
 『危険な関係』で重要なのは、いわゆる書簡体小説という形式をとることによって、それぞれの登場人物が有する情報が遮断されているところで、そういった意味で、読者は、各登場人物の限定された視野の狭さを楽しむことができる。この登場人物はこの事実を知らないと知ることは、読者にとって、凄まじい快楽をもたらすものであり、読者はいわば神の視点に立つことが許される存在となるわけです。
 だから、この小説は、一人称の形式を取ることによって、逆説的に、19世紀の三人称の小説を準備したものと僕は考えるわけですが、とりあえず、そういったことは『デスノート』を考える上ではどうでもよい。

 重要なのは、『危険な関係』をポルノグラフティーに近いものとして考える向きがあったことで、事実、大修館書店から出ている『フランス文学講義』(だったけ?黄色い本)では、この作者であるラクロは、マルキ・ド・サド、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌと並んで「破廉恥三人組」などという不名誉な称号で呼ばれたりもします。このことを踏まえると、『危険な関係』には、どこかしら、ポルノグラフティーを思わせるところがあるというのは一般的に正しいのでしょうし、また、僕自身も「この小説、ものすごくエロい」と思うところがあります。

 なにが、エロティックなのかと考えると、最終的には、それは、先にも述べたとおり、書簡体という形式をとることで、登場人物の視野が限定されているところです。つまり、この小説は、読者には、その視野が限定されていることは分かっているけれども、登場人物は自らの無知を知ることができないという構造になっており、裏を返すと、その登場人物の盲目が「エロさ」を感じさせてならない。登場人物がその視野に捉えることができないものに到達しようとする、その運動によって、生々しい欲望の姿が読者のまえに露になり、そこに、僕たちは「エロさ」を感じるわけです。

 よく言われることだけれども、人間というのは、結局、隠されたり、禁止されたりすることによって、逆説的に、欲望を掻き立てられるという、そういった困った存在であるわけですが、この小説のなかでは、この隠されたり、禁止されたり、ということが幾重にも重なって、その重なりの中で、登場人物たちの欲望がドライブしていくのを目にするっていうのが、この小説の「エロさ」の由来なのだろうと思います。

 と、かなり長い前置きになってしまいましたが、『デスノート』を読んでいて感じたのは、これと同質の「エロさ」であって、確かに、この物語は、その前半部では(途中からそれは変るけれども)、読者がほぼすべての事実を目にするように組み立てられている。
 そうであるにも関わらず、登場人物たちは、その事実を目にすることができずに、逆に、事実を目にすることを欲望して、どんどんとドライブしていきます。
 こういった構造は、まさしく『危険な関係』に見られたものと同質のものであり、知を遮断することによって、かえって、登場人物たちの欲望が掻き立てられるという組み立てになっています。だから、この作品において、読者は、登場人物の欲望の生々しい姿を見せ付けられ、いつしか、他者の欲望を模倣し始めることになります。
 そういった意味で、『デスノート』は欲望の現象学としての新しいかたちのポルノグラフティーであると、僕は読みましたが、いかがでしょうか。