『国家の罠』

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

 ふたたび流行おくれの読書。出版当初、いろんなところで話題になっていましたが、ようやく入手して、読み終わりました。
 いや、面白かったです。僕の個人的な読書計画は、同時併行で三冊から五冊くらいを読んでいて、一冊を読み終えると、次の一冊を読書中の本のなかに入れて、といった感じになっているのですが、最後に入ってきたはずの『国家の罠』があまりに面白すぎて、最初に読み終わるということになりました。そのくらい面白い。

 内容についての細かな説明はいろんなところで触れられているので、ここでは省きます。漠然と思ったことをメモ的に書いておきます。

  • まず、外務省で田中外務大臣鈴木宗男議員が対立していた際の報道についての外務省幹部の発言。

新聞は婆さん(田中大臣)の危さについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質的識字率は5パーセントだから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事が動いていく。残念ながらそういったところだね。

 「実質的識字率が5パーセント」というところは、やはり耳が痛い。僕は、朝日新聞日経新聞を取っていますが、正直、日経新聞については、読んでも何が書かれているか分からないところが多い。特に、政府の経済政策の部分はさっぱり分からない。その意味で、経済政策につき、僕自身に「識字」能力がないということになるのでしょう。
 確かに、法律については、この五年くらい、結構勉強したので、判決を読んで何が起こったのかが分かるようになりましたが、その理解を踏まえていうと、やっぱり、経済政策に限らず、他の基本的な政策について、理解したうえで、批判するということができていない。
 その意味で、外務省の幹部が「実質的識字率」が5パーセントというのは、なかなか痛いところをついているようにも思われました。この本で問題となっている当時、なにが問題となっているかを僕自身も把握していたとは言いがたい。反省しました(もちろん、この本が正しいことを述べているという保証はないというのは前提とした上で、ね)。

  • 僕のわずかな経験から言っても、行政を支配するのは、究極的には、人事と予算です。そして、この本において、問題となっているのも、結局、人事と予算に集約される。

 田中外相と外務省が最初に対立したのは、人事をめぐってあり、まず、田中外相はこれを握ろうとしたわけです。だから、彼女は人事課に立てこもった。
 そして、この本の筆者と外務省の幹部を隔てているのは、筆者が専門職であり、人事については、外務省の幹部ほどは意識しないで済んだということにあるように思われました。人事という意味では、筆者はある程度の自由を享有しえたのではないでしょうか。
 他方、予算というか会計処理についていうと、その部分で、筆者は、背任罪に問われてしまうのだから、そこに躓きの石があったともいえるでしょう。
 ただ、現実的には、会計に関わる法規というのは、非常に細かい。機動的に動こうとすると、何らかの形で、違法な行為をあえてせざるをえない局面というのは、現実的にはありうるし、外務省で情報を収集するなどという業務についていた筆者には、この縛りをあえて破る必要があることは多かったのだろうと想像します。
 だから、この著作の後半部分で、何度となく、「可罰的違法性」の問題がでてくるように思われます。「可罰的違法性」の問題とは、刑罰をもってして罰するに足りる違法性がない場合には、違法性を問わなくても良いのではないかという考え方で(例えば、隣の人の机からティッシュを勝手に取ると、形式的には、窃盗罪が成立しますが、でも、違法性の程度が可罰的じゃないので、刑事責任に問われないといった感じ)、これに基くならば、機動的に動くためには、少しだけしか法規に反しない行為があったとしても、許されるべきだということになります。
 行政におけるお金の流れにおいて、あえて言ってしまうと、まったく違法行為をしないことは不可能に近くて(例えば、随意契約とかね)、その意味で、ここに「可罰的違法性」論を持ち出すという戦略は「なるほど」と思わせるところもありました。しかしながら、こういったグレーゾーンの限界というものもあるはずで、この本で描かれる検察の側の論理に従うとすれば、「実質的識字率5パーセント」の世論を受けて、その限界が下がったということになるのでしょう。
 こういったことを踏まえると、人事においては、国会議員を巻き込み、ある程度のポジションを掴むことに成功した著者は、会計処理において、世論の流れを見誤ったということもできるかもしれません。

  • この本の効果について。筆者は、外交において、言葉の問題はものすごく重要と述べています。例えば、こんな場所。

第二に、支援のレトリックである。ディーゼル発電機供与について、援助や支援ということばを極力使わずに協力ということばを使うことだ。ロシア人はプライドが高い。特に超大国ソ連から現在の困窮した状況に陥ったことで北方領土のロシア系住民は深く傷ついている。日本が援助、支援ということばを多発してロシア人から感謝のことばを聞こうとしても逆効果になることが多い。あえて「困ったときはお互い様。日本も第二次世界大戦後は各国から支援を受けた」くらいの話をして、恩に着せない。人間の天の邪鬼性を重視することだ。それによって日本の支援の効果は四島により深く浸透する。

 要するに、どのようなレトリックを用いるかによって、同じことを述べても、その効果は異なってくるということです。
 とすれば、この著作によって、著者はどのような効果を目論んでいるのか。その部分が一番僕の関心のあるところなのですが、なかなか見えづらいところがあります。

 もちろん、外務省にいる内部の人間を叩くというところもあるのでしょう。例えば、小寺課長について、筆者は、この人をとくに貶めるような書き方はしない。しかし、他の課長との対比において、この課長に能力がないという印象を与えるような操作は行っています。そのようなレトリックは、外務省と検察の組織についても用いられていて、例えば、著作の終わり近くで、ぼそっとこんなことを述べたりもする。

確かに西村検事以外が担当になれば、検察庁は私からひとことも供述をとれなかったであろう。同時にこの攻防戦を通じて、私は西村氏と同氏の活動を高く評価する上司や同僚検察官がいる東京地検特捜部に、皮肉ではなく、心底好印象をもつようになる。「私が行っていた対露秘密交渉も、こういう上司や同僚たちに囲まれていれば、どれだけ苦労が少なく、若い仲間たちをきちんと守ってやることができたことか」と心の中でつぶやいた。

 検察庁を褒めることによって、反射的に、自分を守ることがなかった外務省を叩くというレトリックですね。こういった操作は、この本のなかで、結構行われていますが、こういう作戦は実際に使えるな、と思いました。

 とはいえ、他方で、この著作全体が目指している効果というものは、今一度見えにくくて、もしかしたら、外務省を叩く云々という話ではなくて、著者の目的としている効果は、もっと壮大なものなのかもしれない。つまり、歴史において、自らの義を示すといったような、そういったものが目論まれているのかもしれない。事実、この本において、外交資料が公開された際に、自らが受けた判決と外交資料を付き合わせれば、自分の述べていることが正しいことが証明されるという言葉が見られる。
 もし、そういったことが想定されているとするならば、この著作というのは、ある部分で、きわめてキリスト教的な発想というか、そういったところから示されたものと考えることもできるようにも思われました。つまり、キリストが十字架で磔の刑に処された後、キリストが神によって復活させられることで、キリストの義が証明されたのと同じように、著者も外交文書の公開によって、自らの復活を考えているのではないか。そんな印象があります。

  • 最後に、この著作は、ほとんどハードボイルドとして読むこともできるくらい、セクシー。特に、検察とのやり取りというのは、日本で示されたハードボイルド小説の最良のものに匹敵するような質をもっています。例えば、こんなところ。

西村氏(検察官)も私も基本的に黙っているのであるが、ときどきこんな話をした。
「佐藤は頑強に否認するのでこちらは机を叩いてガンガン取り調べている」
「そうそう。検察庁と基本的利害関係が対立しているので、ひじょうに険悪な雰囲気だ」
「そうそう。いかなり利害の一致もない。険悪な雰囲気だ。」
「しかし、西村検事に対してはほんのちょっとだけ信頼関係がある。」
西村氏は右手の親指と人差し指の間に数ミリの隙間を作ってこう言う。
「そうそう。佐藤優との間にはほんの少しだけ信頼関係がある」
「しかし、それは僕にとって本質的な問題ではない。検察庁とは基本的利害が対立している」
「そうそう。だからガンガン机を叩いて取り調べている。しかし、もしかすると調室の中にいる僕たち二人がいちばん冷静なのかもしれないね」
「そうだね。どうしてなんだろうね」
「よくわからないね」

 格好良すぎます。捜査員と被疑者(この段階では、被告人)との信頼関係と、それが許されない組織の論理と、個人的な感情ではどうすることもできない、その不条理を短い文章で、ここまで端的に示してみせるというのは、テクストの質として見ても、きわめて優れているものであるように思われました。そういった意味で、ハードボイルドが好きな人も充分堪能できる書物になっているようにも思われます。