『先生はえらい』?

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 どんな人の書いたものでも、深く頷けるところと「どうかな」と思うところが入り混じっていることは確かだとして、この人の書いたものは、特にその落差が激しいように感じます。
 この本もコミュニケーション論ないし他者論として読めば、そんなに悪くない。何にも知らなくても、論述は(恐らく、戦略的に)ごく簡易に済まされているので、するすると読めるし、フランス「現代思想」の伏線を知っていれば、「なるほど、あれだね」といった感じに読むこともできる。そういった意味では、そんなに悪くない本だとは思います。古典的で重要なテーマを新しい切り口で論じてみせるというところは見事です。
 ただ、仮に、この本が「制度的な」教育について語っている書物だとすれば*1正直まずいところもあるんじゃないか、という気もします。
 恐らく、「教育」とされているものを乱暴に分類してしまうとすれば、そこには、二つの種類があって、一方には「技術」を伝えるといったような意味あいでのプラティカルなもの(要するに、読み書きソロバン)があり、もう一方には、技術を超えた場所にある「何かしら」を伝えるもの(「アウラ」のごときもの)があるようにも思われます。
 そして、この本が扱っているのは、後者だと思うけれども、それは、果たして、「先生」と呼ばれるような存在が不可欠とされる「制度的な」教育に求めるべきものなのか、というところに違和感がありました。
 この本の最終的な主張は、先生の「アウラ」は、それを見出す人の主体的な態度ないし解釈によって生じるものではあるものの、そこにおいては、その二人の関係性が大切なんだよ、というものであるように読みましたが、「制度的な」教育において、そういった関係性が重要になっている局面はほとんどないんじゃないか、というか、「制度的な」教育において、「アウラ」を前提として語るのはまずいんじゃないか、という、そういった気がするのです。
 つまり、そこにおいては、まずは、「技術」を教えることが先で、プラスアルファとして、まあ、「アウラ」があれば良いんじゃないか、とそんな気がします。だって、もし、「アウラ」だけしかない人が先生だったら、その人に「アウラ」を見出すことができない学生は途方に暮れてしまうけれど、「技術」だけしかない人が先生だったら、少なくても、「技術」は身につけることができる。逆にいえば、先生のほうだって、「技術」を求められれば、それに答えることはできそうなものだけれど、「アウラ」なんてものを求められても、しんどいんじゃないか、とそういう気もします。
 だから、仮に、「制度的な」教育の中に、この本が「アウラ」のごときものを先生に見出すことが重要と考えているのであれば、それはちょっと違うな、という気がします。そんなものは大学を含めて「制度的な」教育に求めるべきじゃないというか、ちょっと「制度的な」教育に期待しすぎなんじゃないかと、そんな印象を持ちます。
 とはいえ、この本が恋愛論ならば、述べられていることはものすごく腑に落ちます。だから、ぜんぜん悪い本だとは思わない。
 いずれにせよ、内田樹の書いたものを見ていると、述べられていることに異論はあるけれども、その人の立場は理解できる、というアンビヴァレンツな場所に読者を連れていくところがあって、その意味では、この「先生」というのは、奇妙な人だなと思います。正直、武器を隠し持っているところが感じられるので、あんまり、習いたいとは思わないけれど。

*1:というか、この本の中では、「先生」が何者なのかが(恐らく、あえて)曖昧にされているので、「先生」が「小中高大学の先生」であるという前提のうえで論じてしまいます。