『ネグレクト』

ネグレクト 育児放棄―真奈ちゃんはなぜ死んだか

ネグレクト 育児放棄―真奈ちゃんはなぜ死んだか

 妻が購入したので、ついでに読みました。
 ディスクールのレヴェルで述べると、それほど質の高いものではないと思います。個人的なものですが、ノンフィクションを読むときの規準として、「書き手の耳のよさ」、つまり、異質な声をどれだけ救い上げることができるか、というものを採用しているので、その意味で、この読み物は、率直に言って、あまり良くなかった。あまりにも、自分の声にイニシアティブをとらせすぎてしまっている。
 とはいえ、内容のレヴェルで述べると、なかなか読ませます。少なくても、これを読みながら、小学生を殴りそうになる僕でさえ、「育児」について、いろいろと考えざるをえなかった。
 それと共に、このルポルタージュの対象となる母親ないし父親のような環境で育ってしまい、まともな自意識を築き上げる機会を与えられなかった人間に対して、どのような責任を問えるのかという問題も強く感じるところはありました。つまり、ほとんど中学生くらいの認識しか有しない者に対して、果たして、刑事的な責任、つまり、刑罰を科しうるのか、ということ。
 絶対的応報刑論の立場で言えば、そのような者に対しても刑罰は科しうる。つまり、この立場によれば、刑罰を科すのは、ただそれが正義のためであって、それ以外に根拠はないのだから、相手が犬であろうと、刑を科さなければならないということになる(まあ、犬に違法性があるか否かの問題はさておき)。
 それに対して、犯罪に対して刑罰を対峙させることで、一般的に人が犯罪に向かうことを予防するために(つまり、一般予防のために)、刑罰は存在するという立場があります。それによれば、犯罪に対して刑罰が対応することを明確に認識することができない者に対して、何らかの規範を提示したとしても、その者にリテラシーがないのだから、刑罰は無意味なものになってしまう恐れがある。
 もちろん、刑罰を通じて、そういった者を教化・矯正するという目的(特別予防)は果たすことはできるかもしれません。でも、それでは、その者が犯罪を犯すまでは、犯罪を防止できないという、幾分パラドキシカルな結論になってしまう。
 とすれば、刑罰は何のために存在するのか。それこそ、フロイトの『トーテムとタブー』を出してくるほかないのか。つまり、刑罰によって、犯罪者を作り出すことにより、共同体を維持するために、刑罰は存在が存在するということになるのか。
 こんな具合に、これを読みながら、いろいろと考えさせられるところがありました。その意味では、収穫はあったのかもしれません。