そして、再読は続く

 ふとした契機から『グレート・ギャッビー』を再読。
 全体としての感想は、相変わらず素晴らしいの一言。冒頭にあったトム・ブキャナンの邸宅での夕食の描写(黄昏から夕闇にうつろっていく情景)、デイズィがベッド一杯に広げられた真新しいシャツの中に倒れ込んでいくシーン。見事です。
 とはいえ、今回気づいたのは、この小説の中には、筆が荒れたような、というか、集中力が途切れているように思われるようなところもあるということで、実際、「書くのが面倒くさいや」みたいな投げやりな箇所も幾つかありました(あえて指摘はしませんが)。そういうところも含めて、フィッツジェラルドなのかもしれません。
 ところで、この小説の中には、なかなか気の効いたというか、「これは使ってみたい」というフレーズがいろいろとあります。例えば、こんなの。

結局のところ人生は、一つの窓から眺めたほうがはるかによく見えるのである。

「おれのほうがおまえより強くて男らしいからといって、おれの意見が決定的だなんて考えるなよ」そんなふうに言っているような感じを彼からは受けるのである。

「デイズィ、あなたと会っていると、こっちはいかにも田舎者っていう気がしてくる」(・・・)「作物のできとかなんとか、そんな話はできないものかな」

 僕が一番受けたのは最後のフレーズで、これは誰かに言ってみたい。「○○さん、あなたと話していると、頭が混乱してきます。作物のできとかなんとか、そんな話はできないものかな」、「○○さん、仕事の話はもう沢山です。作物のできとかなんとか、そんな話はできないものかな」。そんな感じで、何にでも使えそうです。
 それにしても、『グレート・ギャッビー』の登場人物の一人の誰かになれるならば、やはり、僕はトム・ビュキャナンになりたいです。こういう、裏も表もなくお馬鹿な人というのは、結局、一番幸せなんですよね。