ベタな方法論

 もちろん、表現の自由であっても制限が必要な場合もある。しかし、その制限の方法については、少なくとも「二重の基準」の言葉を聞いたことがあるならば、それなりの洗練されたやり方、つまり、法的な抜け道を探し出し、精密な論理構成を組み立てるといった方法を考えるべきだったのではないだろうか(例えば、国会答弁で内閣法制局が行っているようなこと)。
 ところが、今回の事件を踏まえると、その制限の方法はあまりにベタである。検察は、それと同様の事案についての東京地裁の判決がなかったかのようにふて腐れ、「住民が怒っていたから」という、あまりにお粗末な議論から論を立ち上げて起訴してしまっている。
 さらに、NHKの事件に至っては、その介入のやり方は、政治的な高度な手練手管も加えられずに、予算を人質にとり、かつ、面と向かって物申すというガキでもできる安直かつ露骨なやり方であり、しかも、それがばれてしまっている。権力の狡猾もなにもあったものではない。こんな圧力のかけ方は、法律論を外れても、政治家として恥ずかしいことなのではないか。
 言うまでもなく、これは、かなりシニカルに見た場合での話ではある(表現の自由は最大限保障されなければならない)。それでも、大前提としての憲法論があって、さらに、それを換骨奪胎するかのような権力の狡猾があり、その行きすぎを裁判所が是正するといったような、ダイナミックな動きを想定するのであれば、このところの表現の自由に対する制限はあまりにもお粗末である。そして、それゆえに、かえって恐ろしい感じがする。