表現の自由の優越的価値

 「表現の自由」が優越的価値について、最高裁判例(「北方ジャーナル事件」)はこんなことを述べている。

主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二十二条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される

 言うまでもないことだけれども、民主主義という体制をとる限りにおいて、政府の正当性が担保されるためには、まず、政府は主権者である国民の信任を得なければならないし、国会もまた同様である。国民の意思から切り離された正当な国家権力というものは、民主主義というシステムをとる限りにおいて、ありえない。そして、政府ないし議会と国民を繋ぎ、その正当性を担保するための直截的なシステムが選挙ということになる。
 それと同時に、その選挙にいたる前段階に国民の意思の形成過程がある。この国民意思の形成過程において、自由が保障されないかぎり、国民の意思がきちんと国家につながることはないし、また、国家ないし政府に対する正当性付与のための象徴的機能は害されてしまう(そうなると、例えば、国際社会で民主主義から外れる外道国家と扱われることになる)。
 そして、この国民意思の形成過程に関わってくるのが、表現の自由である。だから、国民があらゆる情報に接触することができ、議論が尽くされることが可能な環境が担保されて初めて、民主主義というシステムは機能するし、また、政府ないし議会の正当性も支持されることになる。
 その意味で、表現の自由に制限については、洗練された慎重さを要するというが今までの基本的な共通認識であると、少なくとも、僕は思っていた。実際、一般的な憲法の教科書(芦部信喜憲法』)には、こうある。

表現の自由を中心とする精神的自由を規制する立法の合憲性は、経済的自由を規制する立法よりも、とくに厳しい基準によって審査されないとならない(略)。
(その根拠)の第一は、統治機構の基本をなす民主政の過程との関係である。経済的自由権も人間の自由と生存にとってきわめて重要な人権であるが、それに関する不法な立法は、民主政の過程が正常に機能しているかぎり、議会でこれを是正することが可能であり、それがまた適当でもある。これに対して、民主政の過程を支える精神的自由は「こわれ易く傷つき易い」権利であり、それが不当に制限されている場合には、国民の知る権利が十全に保障されず、民主政の過程そのものが傷つけられているために、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営を回復する必要がある。精神的自由を規制する立法の合憲性を裁判所が厳格に審査しなければならないというのは、その意味である。

 いわゆる「二重の基準」を説明したところだけれども、この記載を見ても、表現の自由の制限に関しては慎重な判断を要するし、この権利につき繊細な取扱が必要とされるというのは、憲法を考える場合の基本中の基本であり、特に、権力を扱う人間にとっては自明のことであるとされていることが分かるだろう。