戦略なしの戦略?

 ところで、引用した文章の最後のところで「このような社会の中で、知性が生きのびるチャンスがあるのだろうか」という問いかけがされているけれども、個人的には、ほとんど絶望的だとも思う。
 そもそも、こうした状況になってしまうと、洗練された批判なり異議申し立てを聞いてもらえること自体が非常に難しくなってしまう。というか、ある程度内容のある話をしようとしても、「このくそ忙しいのに、なに、小難しいこと行っているんだ!」みたいな反応しか戻ってこないことが多いような気がする。つまり、何かしらのオルタナティブを提示しようとしても、聞き手の側は「そんなの面倒くさいから、AかBか、どっちかの単純な図式で選択肢を提示してよ」みたいなことになる。
 そうなると、現実的には、ほとんど「知性」を諦めて、異議申し立てを「チープでシンプル」にするか、ほとんどコミュニケーションを諦めて、「知性」に留まるか、という、これまた絶望的な二者択一が浮上してくるようにも思われる
 もちろん、「知性」を諦めて、異議申し立てを「チープでシンプル」にするという戦略はほとんど戦略を放棄するという戦略のような気がして、僕としては、絶対に選択するべきではないと思う。つまり、この期に及んでもなお、知識人には、サイードに倣って、必死にオルタナティブを探すという根性を見せてもらうほかないと思う。まったくのところ、知識人受難の時代ではあるのは確かだとして。