内田樹の「肥満という記号」

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 内田樹のブログは面白いので、たまに見ている。今回のアメリカ大統領戦に触れながら、こんな指摘があった。

その上で、肥満について考えたら、どうして下層の人々が「ジャンクをやめてニンジンを囓る」とか「TVを止めて本を読む」とかのオルタナティヴを提示できないのか、その理由が分った。
下層階級や有色人種も、自分たちが差別されリソースの配分に与っていないということについてはたしかに「怒っている」のだ。
ただ、その怒りを社会に向けて発信しようと望むなら、彼らはその階級的な怒りを「誰にでもわかる仕方で表象する」ことを余儀なくされる。
しかし、その社会的表象において使用できる記号の種類はアメリカにはきわめて限定的な数しか存在しない。
というのも、人々は長年の「チープ&シンプル情報のオーヴァードーズ」の病症として、チープでシンプルな記号で送信されるメッセージ以外は受信できなくなってしまったからである。
裏庭で無農薬野菜を栽培しても、図書館でマルクスを読んでも、体育館で合気道を稽古しても、それらのふるまいは彼らの「階級的怒りの表明」としてはたぶん理解されない。
「社会的メッセージのコミュニケーションのために使える記号の種類がきわめて限定された社会」においては、その社会の記号的失調に遡及的に言及しうるようなことばそのものが社会的に「記号として認知されない」という「出口なし」事況が出来する。
「チープでシンプルな社会」に対する怒りが記号的に有意であるためには、その怒りの記号そのものを「チープでシンプルな仕方」で発信する以外にオルタナティヴがない。
それが「アメリカの悲劇」なのだと私は思う。
だから、下層の人々はマクドをむさぼり食って、TVの前でいぎたなくポテトを囓り、ビールを呑んで、200キロの体重を誇示する。
肥満することは、彼らが豊かな食文化から疎外され、栄養学的知見から疎外され、効果的にカロリーを消費するスポーツ施設へのアクセスから疎外され、カウチポテト以外の娯楽を享受する機会から疎外されているという「被差別の事実」を雄弁に伝えるきわめてわかりやすい社会的記号だからである。
「記号としての肥満」、「階級的異議申し立てとしての肥満」。
そういう概念を動員しなくては、ある種のアメリカ人のあの以上な肥満ぶりを説明することはむずかしいだろう。
「単純な社会」においては、そのような社会の単純な成り立ちそのものについての異議申し立てさえ、誰にでもわかる単純な仕方で提示されなければ、異議申し立てとして機能しない。
このような社会において、知性が生き延びるチャンスはあるのだろうか?

 「「チープでシンプルな社会」に対する怒りを「チープでシンプルな仕方」で発信する以外にオルタナティブがない」という指摘は全く正しいと思う。この前、僕自身がハワイに言った時に感じた「不可解さ」も、結局、ここら辺の事情があるんじゃないかとも思う。あまりに単純な仕方で「リゾート」が提示されていて、それから外れた存在はその構成要素ないしそれを表象する「記号」として成立しない、といったような感じがあったように思う。
 ここで、「そういう国に行ったんだから、それに従え」という意見もあるとは思うが、それは、やっぱりなしだと思う。そんなことを言ってしまったら、今回のブッシュというアメリカ人の選択に何にも言えなくなってしまう。