マゾ

 とはいえ、むろん、否定しているわけじゃなくて、もちろん、原理的に新しいとか言って、興奮しているわけでもなくて、ただ、こうした状況を受け入れてしまっているようなところが強くて、こういった感覚は、ある部分では、マゾヒスティックだよなって思うところもあります。
 ずいぶんと話は飛ぶけれども、最近、マゾ的な在り方に関心があって、「従属することによって、支配する」みたいな図式に関心があるにはあり、マゾ的なあり方と民主主義に重なるところがあるというか、民主主義っていうのは、「支配者と被支配者の同一性」という言葉で語られることからしても、もろにマゾ的な世界なのではないかという感じがして、ちょっと調べようかと考えているところがあります。
 (とそれらしいことを言いつつ、実は、本気で、普通に本気でマゾな人というのは、物理的には、なにを体験しているのかという関心もあるにはあって、例えば、「むち」や「蝋燭」や「ロープ」の使い方は情報として知っているのですが、「「浣腸」って、どう使うのよ?」的な関心があります。いや、それどころか、僕の知らないマシーンがあるんじゃないかって、そういう関心ですね。そういうのを利用している時の感覚というのは、どういうものかっていうのを、本気でそういう趣味を有している人に聞いてみたい。『みいら採り猟奇憚』という本もありましたが、あそこでは、マゾが外部にあって、マゾに支配される人間のビルディングスロマンスといった趣があって、それはそれで良かったのですが、それとは別に、本気でマゾな人に会って話してみたいという感じはします。むろん、ノーマルな人間として、なので、調子が良いといえば、あまりに調子が良い話なのですが。)
 それと関連して、最近の情報の受け手としての自分というのは、もろにマゾなんじゃないか。というか、支配されているような、支配されているような、それでいて、支配されているような、という幾つもの屈折を経て、僕のネットライフが存在しているような気がします。つまり、ネットの海に漂っている死体のようなイメージを演じるといえば良いのでしょうか。