『ららら科学の子』

 ずいぶんと前の話になるんですが、矢作俊彦の『ららら科学の子』を職場で読みはじめて、ほとんど泣きそうになったことがありました。作品が優れていたためです。
 その物語の説明はむずかしいのですが、大雑把に言えば、その中では、全共闘の時代に機動隊を殺しかけたために中国に逃亡し(というべきか?)、その地で文革に巻き込まれてしまい、中国の南部に追放されたまま三十年間過ごした主人公が日本に戻ってきて、東京で過ごす日々が描かれています。
 こういう風に書くと、なんだか『大地の子』みたいですなとか思う人もいるかもしれないけれども、むしろその読感はハードボイルドに近いものでした。 
 それで、僕が泣きそうになった理由に戻れば、主人公の喪った感じがとてもうまく描かれていたということが一番大きい。
 この物語は「喪失」という言葉を使わずに、それをとても上手に示しているように感じます。「理なき」文革に巻き込まれ、人生のほとんどが失われてしまったこと。そうでなければ、東京に戻ることによって、かつての、三十年前の世界が失われてしまっていること。そんな具合に、物語の中では、主人公が様々なものを失ってしまったことが示されるのだけれども、その喪失感というか空気のように漂っている曖昧な、でも、切実な感覚を実にうまく描いているように思いました。
 こういうのは、下手な作家が書くと、甘ったるくて読んでいるほうが恥ずかしくなるような代物になるか、そうでなければ、大河ドラマ化して「ああ、それはそれは残念でしたね」と自分の外側の出来事となるか、どちらかだと思うんですが、この物語はそのあたりが非常によくできていて、とてもよろしい。適度な距離感をずっと保ってくれるので、かえって人を泣きそうにするのでした。