至上の愛

みいら採り猟奇譚 (新潮文庫)

みいら採り猟奇譚 (新潮文庫)

 良かった。廃版になっているんじゃないかと恐れていましたが、まだ、手に入るようです。最近廃版までのサイクルが早いので、「もしかしたら、これも駄目かも」って、ちょっと心配していました。
 で、再読しました。
 最初に読んだ時は、最後の最後で感動させられてしまい、それで、良い小説だという記憶に残っていたけれども、今回読んでみて、感動を深めた以上に、この小説の緻密な構成に舌を巻きました。
 「どうせ、谷崎潤一郎のパクリだろ」なんて言っている人は(僕?)、ちょっと考えを改めたほうが宜しいと思います。これほど、愛の実相をきちんと捉えることに成功した「恋愛小説」っていうのは、日本文学史においても、それほど存在しないのではないのではないでしょうか。

 もっとも、この小説がとっても優れた「恋愛小説」であるということが周知されていないのは、出版元の新潮社にも問題があるのも確かな話で、例えば、文庫の裏側の紹介文には、こんな感じのことが示されている。

相良外科病院のひとり娘、比奈子は19歳で、38歳の内科医・尾高正隆と結婚した。昭和16年の初夏ふたりの生活が始まった。正隆は、今から少し遊ぼうと、比奈子に、真に生きることを教えはじめる。快楽死を至上の願望とするマゾヒストの彼は、妻をサディストに仕立てあげた・・・。

 いや、売るのが目的なのは分かるし、「恋愛小説」と言うよりも、「マゾヒストの彼」とか「妻をサディストに仕立てあげた」とか、そう書いたほうが、そういったことにご関心がある普通の人の目をひくっていうのも分かります。だから、まあ、仕方がないとこもあるのでしょうが、しかし、これじゃあ、なんか、あまりにも、この小説がかわいそうになってきます。こんな言われようをしたら、まるで、変態小説みたいじゃないか。

 むしろ、この小説は「恋愛小説」の枠組みを純化させたものとして考えるべきだと、僕は強く思います。

 例えば、この小説のポイントのひとつとして、比奈子が結婚すると思っていた人に自殺されてしまった19歳の女の子であるということがあるけれども、この構図は恋愛小説のひとつの王道と考えることができます。
 つまり、比奈子と正隆の結婚生活は、あらかじめ、彼女と彼と死者という三角関係が成立するように設定されている。『ノルウェイの森』を引くまでもなく、この設定は恋愛小説のひとつの定型であって、或いは、ひとつの恋愛の普遍的な形式と考えることもできるかもしれない。
 その意味で、この小説は、特殊な営みというよりも、恋愛において普遍的なものを扱っていると考えるべきじゃないかと、僕は思います。

 もちろん、この小説の中では、特殊な営みが描かれるのは確かであって、それを踏まえて、この小説を「「快楽死」を描いた純文学」とすることを完全に否定はできない。
 でも、果たして、ノーマルとされる僕たちの恋愛や結婚は、サド=マゾ(って、単位化はドゥルーズによると、誤っているということらしいけどさ)の構図から完全に免れているかといえば、そんなことはないように僕は思います。
 むしろ、男女の微妙なヘゲモニーの奪い合いみたなものは、結婚や恋愛といった日常生活において、うんざりするほど繰り返されるものであって、それを純化させた延長線上にサド=マゾの構図はあるとさえ言えるのではないでしょうか。
 だからこそ、例えば、この小説のこんな文章は、読者に強い印象を与えるように思われます。

あの豆栄螺は何か格別の元気が沸く気がした程のおいしさだった。しきりに、二人はそう言い合った。しかし、互いに相手のの味わったおいしさは、識り合うわけにはゆかないのだ、と比奈子は思う。考えてみると、交りでさえ、そうなるのかもしれなかった。一瞬から一瞬へと、期待と的確な充足が相次ぎ、高まってゆく時、実は彼女の歓びは彼の歓びを本当に識り得ているのだろうか。双方の歓びが高まりきって、奪い分かった一瞬に見舞われるその時でさえ、互いの歓びは果たして混じているのだろうか。

 こういうのって、感覚としてよく分かります。彼と彼女は永遠に分かりあえないといったような意味あいで、よく起こりうることだ、とさえ言える。こういった文章が鏤められた、この物語は、だから、非常に優れた「恋愛小説」であって、僕たちの世界と異質な場所にあるわけではないように思われるのです。最後に、僕がもっとも印象に残った文章。

二人はあくまでも、途方もなく屈服させられ、屈服せしめている男女であった。

 いや、でも、だからといって、僕が縛られたいとか、そういう願望を持っているわけじゃありません。誤解しないでね。