『あ・じゃ・ぱん』の語りにくさ

 『あ・じゃ・ぱん』のことを書こう書こうとくよくよしていたのですが、結論として述べると、非常に語りにくい小説であるということに思い至りました。一見して、そんなに難しい小説でないような気がする。でも、何かを語ろうとすると、するりと手から逃れていく。そんな印象があります。
 これは物語が語られているポジションに由来すると想うのですが、そのポジション自体を述べようとするにも骨が折れるし、そんな体力もないので、思いついたことを断片的に書いておくだけにします。

  1. 語り手の問題

 何といっても複雑なのは、この物語の語り手。語り手はCNNの日本に詳しい黒人記者とされる。これにより、この物語がまず英語で示され、後に、日本語に翻訳されたとの錯覚が生み出される。こうした錯覚は度重なる日本語や捏造された日本の歴史についての解説によって、より強固なものとされていくのだから、そもそも、そうした効果が狙われて、この語り手が選ばれたと考えられる。
 このことから導き出される帰結として、物語において、日本を捏造する(語る)のが英語によるということ。もちろん、このことを捏造された日本の歴史は日本に起源を持たない正統な歴史ではないという自己言及的な暴露と考えることもできるかもしれない。でも、その程度のものとしてしまうと詰まらない。
 むしろ、現実においても、戦後の日本の歴史はアメリカによって語りなおされた歴史であるのだから、『あ・じゃ・ぱん』は反転した歴史を介して、現実の戦後を描いていると考えるべきなんじゃないかと思う。

  1. 「歴史を修正する物語」?

 確かに、この物語の中では、すべてが「戦後、日本が東西に分裂したら」という想定のもとで進んで行くわけだから、「歴史を修正する物語」と捉えることができる。「歴史を修正する物語」と言えば、トマス・ピンチョンの『重力の虹』だとかスティーブ・エリクソンの『黒い時計の旅』(というか、僕が『Xのアーチ』よりも好きだから、例に出すんだけどさ)だとかを思い出す人も多いだろうし、ネタが似ているという点においては、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(タイトル、正しい?)を思い出すのが正しいのかもしれない。
 ただ、例えば、トマス・ピンチョンの『重力の虹』においては、歴史を語るというディスクールの編成自体が崩壊させられ、そのレヴェルにおいて、正統な歴史と覇権を争うような構図が生じるのに対して、そうでなければ、エリクソンの『黒い時計の旅』が、全体ではなく個人の情念を軸として歴史を描き、結果として、その情念によって、全体が変容させられるという点において、正統な歴史に対して、批評性(ないし差異)とでも呼ぶべきものを得たのに対して、『あ・じゃ・ぱん』の中には、正統な歴史と捏造された歴史の間の二項対立的な緊張関係はない。
 もし、二項対立的な緊張関係があれば、もう少しこの物語は語りやすいものとなっていたのだろうけれども、ことはそんなに簡単じゃない。むしろ、『あ・じゃ・ぱん』の歴史において強調されるのは、正統な歴史と捏造された歴史の間の共犯性ないし目配せとでも呼ぶべきものだ。
 そこでは、読者は、正統な歴史を常に参照枠にして、捏造された歴史を読むように促される。というよりも、そのようにして読んだほうがこの小説は楽しい。この楽しさがどこに由来しているかといえば、正統な歴史が捏造された歴史でも反復され、その反復の過程において、より正統な歴史が過剰なものとなっているというところだと思う。その過剰性ゆえに、読者は笑わされる。
 とすれば、この物語の中では、捏造された歴史は正統な歴史と対峙するものではない。それは現実のアンチテーゼなどではないのだ。そうではなくて、正統な歴史をより濃縮させて、それをメルトダウンにまで追いやった上で、何が見えてくるのかという思考実験とでも呼ぶべきものであり、その手法は「歴史を修正する物語」のそれではなく、パロディーのそれに近い。
 その意味で、私たちは、この物語を読みながら、ありえたかもしれない戦後を介して、現実の戦後を見つめることになる。