今日の昼食
今日は友人二人と一緒に四谷にある「オテル・ド・ミクニ」というレストランに行ってきました。ランチで、グラスのシャンパンとワインを入れて、一万円くらい。メニュは次のとおりでした。
- 京都上賀茂の田鶴さんが作った賀茂茄子と芝海老・帆立貝のしんじょう和え、冷製コンソメ仕立て、デラウェアとシブレット添え
- 八丈島・沖タカベのグリエ、青森・長芋のフリットとジンジャー風味の麦いりリゾット添え、オクラ・モロヘイヤ・ツルムラサキのねばねばソース和え、ピスタチオ風味
- ペリゴール産ホロホロ鳥の蜂蜜とエシャロット風味、長野・トラさんエノキとクレソンのブーケ、プティオニオンとレモンのコンフィ添え、アンディソープのプレゼとサラダ和え、そのホロホロ鳥のエキスとグリーンペッパー風味
- ノリマンディー地方・フロマージュブランの愛知・アロエとアセロラ風味、ブルターニュ世界でひとつのオーガニック・ゲラントの天然塩味、プラリネと黒胡椒の薫り
- 沖縄産パッションフルーツのスフレグラス、アプリコット・フランボワーズ・ブルーベリーのジュレ添え、レモンバーム飾り
- 本日の季節パティスリー
- コーヒーとミニャルディーズ
何が書いてあるのか分かりますか?僕にはさっぱり分からない。さらに、このメニュと目の前の皿を照らし合わせても、やはり何が何だか良く分からなかったというのが正直なところでした。
こういうのは、多分に僕の無学さによるためだとは思うんですが、それと同時に、一般的に言って、これは料理を文字で描写することの困難さにもよるんじゃないかとも思いました。料理をきちんと文字で示すというのは、料理が技巧的なものになればなるほど、難しいことになるんじゃないかと思うわけです。
実際、小説の中で料理を描いているのを見ると、一方では、ただ「美味しい」とかそういった言葉のヴァリエーションで誤魔化してしまうものもあれば、他方で、説明のしすぎというかメタファーの使いすぎで何が何だか分からなくなってしまっているものもある。こういった状況は、料理を描写することの困難さからもたらされているんじゃないかと思います。
つまり、視覚、嗅覚、臭覚だとかそういった五感からもたらされる情報だけに留まらなくて、それがどういったものかを具体的に示そうとすると、個々の材料の名前やら口に入った後、どのように時系列的に感じられたかみたいなことまで書いていかなければならない。そういうのって、単純に書くこともできないし、かといって、説明しすぎるとしまいには何を描いているのか不明なものになってしまう。バランスが取りづらいと思うわけです。
だから、料理をきちんと描くことができている作家というのは、少なくても技術的には一流なんじゃないですかね。分かんないけれど。
ちなみに、料理はすべて美味しかったのですが、個人的には、最初の「賀茂茄子」云々が良かったです。冷たいコンソメとざっくりとした茄子としつこくなくて、ほんわりとしている海老・帆立のしんじょうが食感としては三者三様なんですが、よく合っていたような気がします。