斜線の入った主体

 憲法記念日ですね。正直、こういう日には、憲法のことを書きたくありません。それは、面倒くさいっていうのもあるけれども、同時に、廻りが盛り上がっているときに、それに吊られて書くと、ろくなことがないっていう経験的なところに由来するものが多い。
 まあ、今日の朝日新聞の記事とかの感想とかを書こうと思えば、(内容はともかく)書くことはできるけれども、そうすると、なんか下手なことを言ってしまいそうな気がします。

 ただ、ひとつだけ、ラカンを読みながら(笑)、最近、改憲論について考えているのは、こういう喩えが正しいのか否かがわかんないけれども、改憲論っていうのは、敗戦によって、「日本」という主体には斜線が引かれて、シニフィアン1としての日本国憲法が「日本」を代替するかのような構図が生じて(この意味で、敗戦っていうのは、日本が大人になる一段階なんだよって、僕は理解してますが)、しかし、それでは、欲望、つまり、「対象α」が満たされないから、シニフィアン2としての新憲法を求めている、みたいな単純な図式に還元できちゃうんじゃないかっていうことです。

 こう言っても分かりませんね。まあ、このところは理解してもらえないかも?って思いながら、時間と努力を怠って、考えていることをそのまま書いているので、今のところは、なんの話だかっていうのが正しいと思います。そのうち、時間ができたら、このあたりのことをある程度詳しく書いてみたいな、と思っています。

 で、何が言いたいかといえば、上の図式が正しいとすれば、新憲法になっても、欲望は満たされないから、今のフラストレーションたまっている状態を憲法改正で何とかしようとしても仕方がないんじゃないかって、それだけの話なんですが。