川崎フロンターレ2−1浦和レッズ

 前回の試合で、3−4で負けてしまったので、「あーあー」とか思っていたら、いや、勝ってしまいました。アウェイゴールで、ナビスコカップ準決勝に進出。
 あの反則的にすさまじい人たちの集まりに勝ったんですか。なんか、もう、想像を超える事態です。僕は泣きそう。いや、本当に。

突然どうでもよくなる

 とはいえ、同時に、そういっているわけにもいかないのではないか、という気もする。
 なにが言いたいかといえば、「人間っていうのは、そういう風にできているんですよ。いや、君も大人になれば分かると思うけど、労働っていうのは、そもそも疎外されるもんなんですよ。」と諭されたところで、疎外されている状況には変わりはなく、また、その苦痛というものが和らぐわけでもない。その言い草は、チンパンジー似の上司が痙攣する彼に「仕事って言うのはさあ・・・」と語りかけて、無理やり出張に連れ出すのと同じように、なんの効果もない。というよりかは、むしろ、病を悪化させる。
 そんな風に考えた時、この小説のなかで、ラカンが槍玉に挙げられ、語り手が精神分析に「ふざけんなよ」と異議申し立てする意味というのも、何となく理解できるような気もする。恐らく、この小説の大いなる、そして、えげつないまでの疑問符というのは、そのシニカルな文体に反して、欲望だとかの構造を端的に指摘して、肩をすくめるといった冷めた態度に向けられている。人間の欲望などと言われたところで、私たちの苦痛はぜんぜん和らぐことがない。この小説に新しさがあるとすれば、そうしたところを指摘してみせたところにあるように思われる。しかも、ラカンのお膝元で。そういえば、この小説には、こんなエピグラフもあった。

「近代的であるまいとすることが、突然どうでもよくなった。」(ロラン・バルト

闘争領域の拡大

闘争領域の拡大

闘争領域と欲望

 そんな風に考えると、ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』は、疎外に対する警告であるかのようにも映る。語り手は、幾度となく、労働や苦痛がそれに見合った結果をもたらしてくれないことに注意せよ、注意せよ、と警告を発する。歯車と歯車がきちんとかみ合っていたとしても、結果としてもたらされるものは、たいていの場合、無残なものでしかないと言い募る。そういった意味では、誠実な小説だと思う。
 でも、同時に、そんなの当たり前じゃないか、という風にも思うところもある。すなわち、私たちが欲しいものを手に入れることができない、というのは、人間の条件的な意味合いで当たり前なのではないか、という気がする。対象αではないけれど、欲望にきっちりと重なり合う対象がこの世界に存在しないというのは、ここまで言い募るほどのことではないのではないか、という考え方もありうるわけだ。
 事実、この小説のなかでは、語り手の失望を誘うのは、労働だけではない。彼は、恋愛ないしセックスにも失望している。この小説において、恋愛ないしセックスは、労働と同列に扱われるべきものだ。

やはり、と僕は思った。やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化のシステムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化のシステムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は毎日セックスする。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化にとんだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。

 この小説が疎外をめぐる物語であるとするのであれば、その疎外とは、労働を巡るものであると同時に、セックスないし恋愛を巡るものでもある。そして、この物語が労働と恋愛ないしセックスというふたつの欲望とそこからの疎外を扱っていると考えるならば、そこにあるのは、もはや、精神分析の理論に見られる構図にほとんどかわるところがないものとなってしまう。いじわるな見方をすれば、この小説のいう「闘争領域」とは、人間の欲望そのものの領域ということになってしまう。労働における疎外とは、結局、欲望に対して、或いは、無意識に対して、私たちが疎外されていることの一例にほかならない。「なにも、そんなことを言い募る必要はない。分かりきったことだ。」と首をすくめてみることさえできそうだ。

我々のささやかな疎外

 子ども頃には、いや、大学を卒業するあたりまでは、仕事をする、というのは、ごく単純に仕事をするということだろうと考えていた。仕事が苦痛で退屈なものであるとしても、それは、仕事から派生するものであって、仕事とは無関係なものではないという風に楽観的に考えていた。だから、たとえ、どんな労苦があるにせよ、仕事は仕事であり、それがうまくいった暁には、そういった労苦も昇華されるのだろうし、それはそれで報われるのだろう、と安易なことを考えていたように思う。
 しかし、実のところ、仕事に関わる労苦の大半は、仕事とは関係ない話であって、ほとんどのところ、その労苦を乗り越えたところで、仕事が上首尾に進むということもない。例えば、チンパンジーの上司が痙攣の彼に対してとる態度に私が苛立ちを抱えているとしても、それは本筋の仕事とはまったく関係ない。「いや、それは、組織を上手にマネージメントしていくことであって・・・」云々とそれっぽい話を述べる人もいるかもしれないが、そんな人とは口もききたくない。というか、そんなのはポイントを外しすぎていて、お話にならない。
 ここでの問題は、組織だとかマネージメントだとか、ウィンウィンの関係だとか、そういった下らない話ではなく、労働や苦痛とその結果の関係性だ。事実として述べるならば、人が投下した労働や苦痛に対して、結果として現れくるものは、原理的に、その労働や苦痛が目的としていたものとは異なったものとなる。そういった話だ。
 むろん、その結果として現れてくるものが思いもよらない好ましいものとなる場合もあるだろう。だいたいのところ、仕事でうまくいって、自分に満足している人というのは、そういったものを基準として、ものを語ってみせるから、「出会いを大切にしよう」と明るくインタビューに答えてみせたりもするのだけれど、最大限努力して多く見積もっても、そんなの半分くらいしか本当のところを言っていない。だから、成功した人には、もっと誠実であって欲しいと思う。もう半分を付け加えるべきなのだ。「しかし、出会いは、時として、いや、たいていの場合、無残な結果をもたらすこともある。注意せよ。注意せよ。」と。
 そして、私たちは、無残な結果がもたらされた状況を疎外と呼ぶのではないだろうか。

痙攣とチンパンジー

 これから書くことはすべてフィクションとして読んで欲しいのだけれども、まず、職場の隣の席の人の震えがある。
 彼は三十分ほどのあいだに1回ほどの割合で、からだをガタガタと揺らす。今、「揺らす」と書いたけれども、それは痙攣に近く、「カタカタカタ」というリズムといったほうが正しい描写になる。そして、事務用のステンレス製の机の引き出しに彼の膝があたって、その度ごとに、それにあわせて、机が細かく震えだす。そして、当然ながら、隣にある私の机も震えだす。カタカタカタカタカタ・・・。
 別に、私はそれに腹を立てているわけではない。むしろ、気の毒に思う。彼は、まず、鬱病になり、そして、それを紛らわせるために、アルコールを浴びるように飲んだ。そして、そういった人たちに場合によって見られるような経路を辿って、からだがガタガタになり、検査した時には、ガンマGPAが1000を超える数値になっていた。付け足すならば、ガンマGPAとは、通常の人ならば、3桁で死んでしまう数値だ。
 当然ながら、彼は病院に入る。そして、今、彼は病院から出てきて、職場復帰を試みている。からだが痙攣したところで、彼を責めるわけにはいかないだろう。そんなの生理現象だ。誰であれ、そういった状況に理不尽に巻き込まれて、泥濘に足をとらわれてしまうことはある。
 とはいえ、チンパンジー似の哀れな上司は、それをなかなか理解できない。理解できないというよりも受け入れることができないのかもしれないが、ともかく、その様子を見て、苛々している。彼が復帰してきて最初の頃には、復帰してすぐだというのに、「体力が落ちちゃっているから、一緒に出張してくる」と彼を引きずり廻していた。当然、彼はへたばる。へたばって、痙攣が激しくなる。そして、一週間に何度か、上司は彼と一対一の面談をする。戻ってくると、彼はふたたび痙攣をする。

わがうちなるヤンキー

 最後に、個人的なことを書くと、『SEX』の連載がされていた時期、都心の私立高校に通っていた。バブル経済が崩壊する直前の話で、その文化的な状況は、少なくても、ヤンキーとはほど遠い場所にあったはずだった。事実、東京の北のほうに住んでいて、未だに、ボンタンを履いている人間は露骨に馬鹿にされ、放課後になると、多くの人間が渋谷にラルフ・ローレンのシャツとコールハーンの靴を身に着けて、渋谷に出かけていった(まあ、僕は違ったのだけど)。
 でも、同時に、そのような時代でも、クラスの人間のなかで、『SEX』に人気があったことを憶えている。いや、正直にいえば、僕自身もまた、この漫画を真正面から受け止めていたところがある。「かっこう良いな」と。とすれば、もしかしたら、当時、どんなにあか抜けて見せようとも、僕たちは、ラルフ・ローレンよりも、ボンタンを履きたかったのではないかという気もするところもある。